コラム 2023.02.27

【ラグリパWest】学生の中に。嶋﨑達也 [筑波大/監督]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】学生の中に。嶋﨑達也 [筑波大/監督]
名門の筑波大ラグビー部を監督として率いる嶋﨑達也さん。高校近畿大会を視察の帰り、新大阪駅でのオフショット。大阪は文楽の街であり、その文楽人形の横でニッコリ



 嶋﨑達也は関西にいた。筑波ラグビーを率いるOB監督である。

 2月18、19日の週末、和歌山であった高校近畿大会にリクルートで赴く。「シマさん」こと嶋﨑は人望がある。同道したのは西村康平、佐藤隆夫、白隆和(ぺく・りゅんふぁ)ら筑波OBたち。3人は大阪の高校教員かつラグビー指導者。役務も兼ねていた。

「僕は院生コーチからスタートしたので、今もシマさんと呼ばれています。だから学生と一緒にラグビーを作っている感じです」

 丸い瞳は輝く。笑えば、顔全体がくしゃっとなる。探求心が詰まった少年の雰囲気も漂う。この4月で不惑になるとは思えない。

 筑波は先ごろの大学選手権で4強入りした。関東対抗戦5位ながら連勝する。天理に50−22、リーグ戦1位の東海には20−17だった。監督4年目での最高位になる。

「やりたいことが少し花開いた感じがしています。枠組みをできるだけ少なくしました」
 ボールを動かした。好きなフランスに範をとる。「シャンパン」と表現されるラグビーは炭酸酒のように選手たちが弾ける。今まで2回ほど現地を訪れたことがある。

 あらかじめ定位置を決め、攻め上がる今主流のポッドとは真逆である。
「選手の能力のバランスがよくなくていい。鬼のようにサポートができるなら、その部分を最大化させればよいと考えます」
 決め事がない分、難しい。そのかわり、どの学生にも生きる道が示される。

 ボールを動かす前段として、保持のための接点も磨いた。昨年2月から朝練習を始める。週2回ほど。柔道場などで1対1のタックルやボール争奪を繰り返した。
「長い時で40分ほど。冷暖房がついているので、修行のようなものではありません」
 嶋﨑は笑った。
「ちゃんと自分で起きる。食事を摂る。体を大きくする。そういうこともあります」

 筑波はラグビー部寮を持たない。学生たちはおのおの下宿して、3度の食事も自前で用意する。嶋﨑は昔、部長だった中川昭に問うたことがある。
 寮を作らないのですか?
「大学生やろ」
 天王寺高出身の中川は関西弁で返した。

 筑波は人間成長のひとつの手段としてラグビーを捉える。社会に向けて巣立つ前段階として、自律して、自立する。それが筑波の伝統である。
「僕が現役の頃も、自分たちでやっていく文化が根づいていました」
 嶋﨑の入学年は2003年。宮城県の仙台三から一浪して、体育学群に進んだ。「群」は学部にあたる。競技推薦を経ないで入試を突破したいわゆる、「一般組」である。

 現役時代はCTB。171センチ、84キロ。公式戦には2年から出場した。
「シマさんはソフトクラッシュ、ハードドライブといった感じでした。柔らかくパチーンと当たって、ググっといってました」
 和歌山に同道した西村は思い出す。2学年下のSOは現在、布施工科の監督である。

 嶋﨑がラグビーに魅了されたのは中2の冬。それまでは野球少年だった。全国大会決勝のテレビ中継を見る。
「エネルギーをずっと出し続けられる競技。これだ、って思いました」
 応援したのはボールをつなぐ伏見工(現・京都工学院)。4点及ばず、國學院久我山に29−33で敗れた。77回大会だった。

 高校受験時、仙台三が県大会のDブロックで優勝したことを知る。強い、と思った。
「あとでわかったのですが、12人制でした」
 県大会は初戦負けが多かった。ただ、個人的な敗北感はなかった。筑波を目指す。

「大学は楽しかったですね。高校に比べたら、むちゃくちゃレベルが高かったですから」
 最初の2年、チームは大学選手権に出場した。背番号12をつけた2年生時は初戦敗退。同志社に36−43。41回大会だった。

「4年生になって、最初は普通に就職活動をしていました。その中でラグビー以外に好きなものがないことに気づきました」
 大学院に進んだのは当時の監督、今は部長の古川拓生のすすめもあった。同時にBKコーチにつく。ヘッドコーチを経て、2019年、監督になる。筑波での生活は入学以来この4月で21年目に入る。学内では助教として、ラグビーの実技やコーチング論を教えている。

 筑波は1872年(明治5)、日本で最初に設立された教員養成を軸とする国立の師範学校が前身である。今は10学群で構成される。ラグビー部員の多くが所属する体育学群は学部として日本一の呼び声が高い。

 創部は1924年(大正13)。来年、100周年を迎える。その独自性は医学群生が在籍することだ。新2年生の小澤一誠と大内田陽冬(あきと)である。嶋﨑は絶賛する。
「抜群です。僕は40歳になりますけど、彼らをリスペクトしています。」
 小澤はHO。大内田はCTBである。

「先べんをつけたのは中田都来ですね」
 中田は灘から2017年に入学。2年生で豊富な運動量を軸にFLの正選手になる。東京教育大から筑波になったのは1973年。その開学以来、最初の医学部部員だった。

 筑波には医師を志す者もおれば、高校日本代表クラスが競技推薦で入学してくる。その価値や基準の入り混じった中で新しい地平が示される。真の文武両道がある。

 新チームは2月1日から始動した。雪辱の1年になる。4強入りこそしたが、水色と白のジャージーは新年2日、深紅に完敗した。5−71。帝京は11回目の優勝を果たした。

 筑波の全国制覇はまだない。大学選手権出場24回中2回の準優勝のみ。49、51回大会である。嶋﨑は話す。
「新チームの目標は、これから整理して、学生たちが決めます」

 主将の選出もその代の4年生が決める(新シーズンはNO8・CTBの谷山隼大が主将を務める)。嶋﨑は「はい」と承認する。
 学生主体を貫きながら、最後の頂(いただき)を征すればいい。嶋﨑は手を貸し続けるだけである。

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