「コーチ」と「講師」。ラグビー界、デュアルキャリアのパイオニア。二ノ丸友幸
二ノ丸友幸の登場は衝撃だった。
2016年、日本代表ではない元ラグビー選手が脱サラをして、同年プロコーチとして全国の高校12チームと契約を結んだのだ。
高校ラグビー界において、プロコーチによるこの規模の横断的指導は異例。前代未聞といってもよかった。
二ノ丸は2016年9月、管理職にあった(株)クボタを退職。その後プロコーチとして御所実業(奈良)など全国の高校12チームと契約した。
また同時に、プロスピーカー(講師)として、企業研修など行う人材育成事業も展開。設立した「Work Life Brand」の代表として、スポーツとビジネスの両分野でデュアルに活動。自身の年収は、約15年勤めた(株)クボタの管理職時代を初年度から上回った。
人懐っこい笑顔の43歳。ニックネームは「マル」だ。
啓光学園高(大阪)で全国準優勝を経験したスクラムハーフであり、同志社大−鐘淵化学工業(現カネカ)を経て、トップリーグ元年(2003年)からクボタでも活躍。しかし「元日本代表」というブランドはなかった。
なぜブランドを持たない元選手が、退職直後からスポーツ(コーチ)とビジネス(講師等)の2分野で活躍できたのか。
背景には、綿密な「10年計画」があった。
「選手を引退したのは2006年。高校時代に痛め、大学2年で完全断裂したアキレス腱と相談しながら練習をする選手生活でした。日本代表を目指していたのですが、選手としては長くない、と分かっていました」
高校2年にして高校日本代表に選出。世代屈指の9番だったが、痛めたアキレス腱に最後まで苦しめられた。ニノ丸はもう消えた——そんな噂話に耐えながらジャパンの夢を追ったが、入団4年目、引退を決意した。
「ラグビーに限界を感じ始めた頃から『自分は何をしたいのか』と考えるようになり、サラリーマンを続けるならクボタの社長になりたいと思いましたが、やりたいことを突き詰めると、コーチ業と、もう一つ、企業研修などの講師をやりたいと。好きなことを仕事にできる人は数少ないといわれますが、仕事にできている人がいるなら、自分もその領域に行きたいと思いました」
「講師業」をやりたいと思った契機がある。
「選手をしながら法務部で働いていた頃、社員向け研修で、講師をする機会がありました。終わってから『勉強になった』『楽しかった』と感想を言われた時、ラグビーの試合で感じたような高揚感がありました。その時に、引退したら次にやりたいのは講師業かもしれない、とビビビッときていました」
しかし一介の元選手が脱サラし、コーチと講師業の二足のわらじで生計を立てられるのか。その実現のために、二ノ丸は「10年計画」を立てた。
「引退後の最初の5年間は企業研修などの講師の勉強をして、次の5年間はラグビーコーチの勉強も始める。その間に管理職試験をストレートで合格し、管理職になって3年間働き、2016年9月に退社する——と決めました。僕にはラグビー日本代表の肩書きがありません。10年間で蓄えた知見で勝負しよう、と考えました」
講師業を突き詰めると決めた最初の5年は、あえてラグビー情報をシャットアウト。企業研修があると聞けば片っ端から受講した。研修受講の際、ノートは必ず2つ用意した。
「会社員時代に数々の研修を受け、社内外で100回超は受講したと思います。ノートは必ず2つ用意しました。1つは内容を記録するノートと、もう一つは講師の評価をするノートです(笑)。講師の話し方などのテクニックも書きますが、わざとしょうもない質問をしてどんなリアクションが返ってくるかも記録しました。『将来自分が講師になるための教科書』を作ろうと思ったんですね」
そしてラグビーに一切関わることなく5年を過ごした後、2012年からの5年間は計画通りコーチとしての勉強も始めた。日本ラグビー協会のリソースコーチの研修会に参加し、その後U17、U18日本代表のコーチも務めた。
この2012年から5年間のハードワークが凄まじかった。
「2012年からの5年間、クボタの社員だったので土日にコーチとして活動していたんですが、金曜日の夜から遠方へ移動する生活を5年間、ほぼ休みなくやりました」
最初に本格的な外部コーチとして携わった奈良・御所実業をはじめ、熊本西高、関西学院高(兵庫)、東京高、沖縄県代表などなど。週末は全国各地を飛び回った。つまり週休ゼロだ。
「5年の間に結婚しているんですが、妻には将来会社を辞める準備だと納得してもらい、その妻との結婚式の最後の準備以外、ぜんぶ外に出ていました。将来コーチ業をするためだと考え、週末の時間、労力、お金は全部投資しました」
平日フルタイムで働きながら、金曜夜から飛行機に飛び乗り、時に沖縄へ、時に北海道へ——。全国を訪れるうち、「ウチへも来てほしい」と無償指導の依頼は増えていった。
そして10年計画の終わりとなる2016年9月がやってきた。
それまで「無償」で行っていたコーチングは「有償」に大転換したが——
「プロのコーチに切り替わったのが2016年でした。それまで無償だったものが有償になるわけですが、一校も減ることなく、契約を続けて頂きました。アマチュアの時に付き合っていたチームが有償で継続してくれた。本当に幸せを感じました」
二ノ丸は突然に12校と契約したのではなかった。時間と労力をかけて築いた信頼関係が背景にあった。
2023年でプロコーチとしては8年目となる。これまで全国約60チームに携わった。引く手あまたの理由は、各チームに合わせてカスタマイズしたコーチング手法。二ノ丸は「自分流」を伝えて回っているわけではないという。
「チームを僕の色に染めているわけではなく、『オーダーに対するサポート』を行っています。チームによって戦術、戦力、目標はすべて違います。一時は最大13チームに関わりましたが、その時は13人の自分がいました。ただオーダーをオーダー通りにやったら100点です。僕は120点を目指し、20点のお土産をどう置いていくかを意識しています」
現在コーチとしては、ラグビー6チーム、カーリングチーム「KiT CURLING CLUB」(北海道北見市)や、サッカーやハンドボール、バレーボールのコーチなど10を超えるチーム、コーチ個人と契約。
同時に、2つのノートを手に10年間準備をした講師業も多忙だ。オンラインを含めた企業研修は国内外で年間100本を超える。
華やかに活躍するイメージだが、経理など事務作業もすべて一人でやる。法務部にいた経歴を活かし、契約書も自分で書く。交通費の請求書整理もやる。
地味な裏方仕事もみずからの社会性を磨くと考えている。スポーツ一辺倒にならない二ノ丸ならではだ。
スポーツとビジネス、2軸での活動は自然な選択だった。デュアルに活動する意識の原点は、勉強とスポーツの両立をサポートしてくれた両親の教育という。一級建築士の父、専業主婦の母から、二ノ丸は現代型のコーチングに通じる教育を受けた。
「ラグビーを始める前、小学校時代はまず平日に宿題などをすべて終わらせてから、週末の野球、放課後のバスケに没頭しました。『学業あってのスポーツ』と言われ続けたのでメリハリをつける習慣ができたと思います。学業とスポーツ、二軸で行動する意識は間違いなく小さい頃からの延長です」
「ただ押し付けされていたのではなくて、両親の言い方は『学業もできた方がカッコよくない?』といった提案型でした。押しつけ、強制もなく、子どもの言い分も聞いてくれました。二人で意見をすり合わせていたのだと思いますが、両親それぞれ言っていることが違う、ということもなかった。両親はラグビーでいう「セイムページ(Same page、同じ絵)」を見ていたと思います。両親の教育に理不尽さを感じなかったからか、私も弟も反抗期らしいものはありませんでした」
心理的安全性の担保された環境でこそ主体性は育まれる。二ノ丸は小学校時代に自分から「塾に行きたい」と言い、中高大の進学先、そして就職先もすべて自分で決めた。両親に反対されたのは——
「クボタを辞める、と伝えたときだけです。でも言い出したら聞かない性格を知っているので、『考え直したら』くらいでしたが(笑)」
二ノ丸自身も子を持つ親となった。
毎朝の日課がある。6時前に起きて、トレーニングをして、掃除機をかける。もちろん理由がある。
「毎朝同じ時間に起きてトレーニングして、2人の子供と妻を起こして、洗濯機を40分回します。その間に1階と2階に掃除機をかけると大体40分。それから洗濯物を干して、幼稚園バスに間に合うように8時10分に息子と家を出ます。帰ってきて8時30分から朝食、9時から仕事、というのが毎朝の“不快適”ルーティンです」
「僕は『成長には“不快適”が必要』と伝えさせてもらっています。『明日の朝も掃除機かけなアカンのか』と思うことも正直あるんですが、自分で『不快適が必要』と言っちゃってるので、まず自分がやらないと(笑)」
“不快適”と向き合う姿勢、地道な努力は説得力として滲み出る。スポーツ、ビジネス両面で参謀として選ばれる男は人に優しく、自分に厳しかった。