コラム 2022.11.24

【ラグリパWest】やんちゃくれ、成長する。金沢章 [東海大仰星OB/宝ヶ池建材株式会社]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】やんちゃくれ、成長する。金沢章 [東海大仰星OB/宝ヶ池建材株式会社]
東海大仰星、大体大でトップ選手として活躍した金沢章さん。今は故郷・京都の建材会社に勤務し、上場のために奔走する。修学院中は金沢さんの母校。ここでラグビーを始めた



 やんちゃくれだった。

 電車に乗る。同じ臭いの集団と目が合う。金沢章(あきら)はかましてやる。
「何、見てんねん」
 昔の大阪なら、メンチ切った。
「降りろや」
 次の駅でそいつらと改札を出て行く。その後は刃物や拳銃のない昭和残侠伝もどき。

 当時、金沢は中学生。サッカーをしていた。所属はガンバ大阪のジュニアユース。ひとつ下には宇佐美貴史がいた。日本代表になり、現在もトップチームに在籍する。

 蹴球期待の星だったが、ラグビー沼に引きずり込まれる。動いたのは大島淳史だった。
「私が中学の教員をやった9年間で一番のポテンシャルを持った選手でした」
 血の気も能力も175センチほどの金沢の体に詰まりまくっていた。

 大島は日体大で主将だった。今は母校・京都工学院(旧校名・伏見工)の監督である。保健・体育の教員として初任地は修学院。高校ではなく中学だった。地元・京都で「しゅうちゅう」と呼ばれ、金沢は2年生だった。

「ずっとにらみつけてくる人がいました。それが大島先生でした。ヘッドロックをかけられ、目覚まし時計を渡されました。ラグビー部の朝練習に加われ、と言われました」

 ガンバの練習や試合は休まないのに、登校しない日もある。そうなれば家庭訪問だ。
「朝、寝ていたら先生は鍵を開けて、勝手に家に入ってくるんです」
 パートに出ている母親とは話をつけていた。大島もまた血気盛んだった。22歳である。

 最初はガンバを優先した。サッカーがオフの日に時々、ラグビーの練習に加わった。
「めちゃくちゃ面白かった。ボールもらう前に相手を抜く感じが、サッカーで裏を取ってスルーパスをもらうのと似ていました」
 ラグビーは殴る、蹴る以外であれば、合法的にコンタクトもできた。

 中3でラグビーにシフトする。才能をさらに開花させるため、高校は土井崇司を頼る。東海大仰星である。ところが5人ほどの集団面接でしくじる。同席者が緊張でカチカチになっていたのを見て、大笑いしてしまう。
「出て行けー!」
 一瞬にして前途は真っ暗闇になった。

 大島は金沢を連れて仰星に飛んで行く。2人とも頭を丸め、謝罪の意を示した。担任と校長までもが同道してくれた。
「大島先生が僕のラグビーの原点です」
 執行猶予付きながら入学が認めらえた。

 土井は金沢のことを「天才」と評した。大畑大介らと同格だ。大畑は金沢より16歳上。日本代表キャップ58を持ち、国際試合における69のトライ記録を樹立した。

 金沢は50メートル級のキック、鋭いステップ、点で通すパスなどを持っていた。2年生でセンターのレギュラーになる。3年の全国大会は8強敗退。優勝する東福岡に7−23。ただ、16点差はもっとも競った試合だった。89回大会(2009年度)のことである。

 この8強戦、金沢は腓骨を骨折していた。開会式の日の練習で受傷する。
「朝、目が覚めるとベッドから床に足をつくのですが、痛かった。でも、出たかった」
 練習もアップもしなかった。それでも土井は先発させた。金沢の力にかけた。

「メンバー発表の時、おーおー、ってみんなが沸いてくれたことを覚えています」
 一緒に戦った同期は坂尻龍之介であり、松島鴻太である。プロップだった坂尻は仰星の国語教員にしてコーチになり、スクラムハーフだった松島は、プロバスケットボールB1 、京都ハンナリーズ球団社長に就いた。

 卒業後は大体大に進む。土井は言った。
「坂田先生なら金沢を育ててくれる」
 監督の坂田好弘の包容力に期待する。坂田も土井と同じ評価だった。
「金沢は天才や。ひらめきを持っとる」
 ところが当の金沢は、1年はレギュラー、2年はリザーブ。3年で部からいなくなった。

 当時の転落ラグビー人生を振り返る。
「熱が冷めてしまいました。仰星の3年間、夢中になり過ぎたこともありました」
 金沢にとって不幸だったのは、よき理解者だった坂田が指導現場から遠ざかっていたことだ。金沢が3年の時に、教授でもあった坂田は70歳退官。監督も勇退した。

「僕には悔いがめちゃめちゃあります。コーチのせいとか、みんながわかってくれへんとか、そんなことで自分をごまかしていました。でも、自分がしっかりして、4年間、分かってもらうように頑張るべきでした」
 座右の銘がある。
<人それぞれ。でも自分次第>

 大学は教員免許を取るため、科目履修生として5年目も通う。教育実習は母校の仰星に行った。受ける側の2代目監督、湯浅大智の評価は高かった。
「生徒の心をつかんだいい実習でした。教員になってほしいな、と思いました」
 選手としては挫折したが、大島、土井、坂田の教えは金沢の体に染みついていた。

 卒業後は「稼ぐため」と大手の不動産会社に就職した。大阪でマンションを売りまくり、2年ほどで管理職の課長になった。いい家に住み、高級車にも乗った。
「でも、思ったより満たされませんでした」
 6年ほど働いて、故郷の京都に戻る。

 昨年8月から宝ヶ池建材で働き出した。建築資材をあきなう。3社からなる「宝ヶ池グループ」の中核である。会長は友人の祖父ということもあり、不動産部門を作ってもらった。今は主に宅地造成を手がけている。

 60年ほどの歴史がある会社には雇ってもらった恩義を感じている。
「夢は鐘を鳴らすことです」
 株式を上場して、証券取引所でセレモニーをやりたい。それが金沢の恩返しである。

「ラグビーをやってよかったです。この競技を介して出会える人にたくさん影響を受けました。大きな財産です」

 やんちゃのエネルギーは「精力善用」に変わった。2つ上の姉さん女房との間には6歳を頭に3人の男の子がいる。金沢は会社や家族のために、これからの人生を捧げてゆく。

PICK UP