海外 2022.04.12

フランスのレジェンド、ルイ・ピカモル。足跡と、現役ラストシーズンへの想い。

[ 福本美由紀 ]
フランスのレジェンド、ルイ・ピカモル。足跡と、現役ラストシーズンへの想い。
ワールドカップ2019準々決勝ウェールズ戦がピカモルにとってフランス代表最後の試合となった(Getty Images)


 破壊的な突破力で敵をなぎ倒して前進する、元フランス代表NO8のルイ・ピカモルのイメージだ。本人にとって3度目となったワールドカップ2019年大会で代表引退を表明し、現在ボルドーで現役最後のシーズンを戦っている。

 ピカモルがラグビーを始めたのはラグビー選手だった祖父の影響だ。祖父はピカモルが生まれた時にはすでに他界していたが、親戚が集まって食事をする時、祖母が祖父の武勇伝を語った。その話を何度も聞くうちにピカモルの中で祖父の存在はヒーローとなり、自分も祖父のようになりたいと思うようになった。

 内気で引っ込み思案だったピカモルにとって、ラグビーははけ口だった。「コンタクトが好きだった。身体は大きかったけど決して戦闘的ではなかった。だからまず相手にぶつかっていくことで、自分に気合を入れていたのだと思う」と振り返る。

 ピカモルにとってラグビーは仲間と楽しむもので、決して職業にするつもりはなかったが、2004年にモンペリエのユースチームからプロチームに加入し、トップ14でデビューすることになった。2年目、3年目と試合出場数も増えてきた。しかしプロとしての厳しさを初めて教えられたのは、2009年にトゥールーズに移籍した時だという。

「ウエイトルームでチームメイトとしゃべっていたら、当時のFWコーチのヤニック・ブリュが来て、Tシャツを脱がされティエリー・デュソトワールの横に並ばされた。僕の身体はぶよぶよで恥ずかしかった。鍛えなければと思った」

 トゥールーズではプレーの幅も広がった。「ギィ・ノヴェス(当時のトゥールーズのヘッドコーチ)から『変わる必要はない。でもビジョンとスキルが加わればコンタクトの前後にパスもできるようになって、敵にとって手が付けられない選手になるだろう』と言われ、ステップを練習し毎回あたりに行くだけの選手ではなくなった。出逢いに恵まれたおかげで成長できた」と言う。

 トゥールーズでNO8の座を確実にし、在籍した6年の間に欧州チャンピオンズカップで1度、トップ14では2度優勝し、2016年にイングランドのノーサンプトンに移籍した。

 しかし、育てのクラブであるモンペリエのヘッドコーチにヴァーン・コッターが翌年就任することになり、キャプテンとしてプロジェクトに参加してほしいとオファーを受け、断ることができなかった。モンペリエでキャリアを終えるつもりで帰ってきた。

 フランス代表チームでも中心選手になり、この頃のピカモルの年間プレー時間は2000分を超えていた。

 モンペリエに帰還して1年目はトップ14の決勝に進出するも、カストルに敗れ優勝はならず。2年目は準々決勝で敗退。コッターはチームを去り、グザビエ・ガルバジョザがヘッドコーチに着任し、若手中心のチームづくりに方針を転換した。

 ワールドカップ日本大会を終えてモンペリエに合流後、4試合目で膝靱帯を負傷し、約1年間グラウンドを離れることになる。けがから復帰してもチームの強化プランから外れていた。「モンペリエのためにまだ役に立ちたいと思っていたけれど、自分の居場所はもうなかった」と、厳しい時間を過ごしていたところ、ボルドーのクリストフ・ユリオス ヘッドコーチからオファーを受けた。

「ユリオスと話し合い、彼の人柄に惹かれた。彼に説得されて、最後のチャレンジをしようという気持ちになった」と言うピカモルに対して、「ボルドーは若くて決勝トーナメントの経験のない選手が多いから、ピカモルのような経験のある選手が必要だった」とユリオス ヘッドコーチは述べる。

 フランス代表での成績は37勝42敗3分け。「82キャップも獲得できるなんて想像していなかった。困難な時代だったけれど、国のジャージーを着て、国歌を歌い、国旗を守る、言葉にできないぐらい素晴らしいこと。毎回いい試合をすることはできなかったけれど、毎回自分にでき得る最大限のことをしてきた」と言う。

 引退後は有機農法でやぎの飼育を始めると決めている。

「終わりが近づいてきて、それぞれの試合が特別で、1分1分が貴重。プロラグビー選手でいられる幸せを最後までかみしめたい」

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