青い弾丸、西橋誠人が引退。「自分のラグビー人生としては、本当にベストなタイミング」[横河武蔵野/WTB]
「もう…出し切った、やり切ったという心境です」
横河武蔵野アトラスターズのWTB/FB西橋誠人(29歳)が引退を発表した。
「高校3年間と大学4年間を合わせて7年間。それと同じくらいの年月を一生懸命頑張れて、首の手術をしたり、いろいろとけがもあった、濃い7年間でした。コロナ禍もありましたし、いろんな紆余曲折、波があった中で、しっかりやれたかなという気がしています」
西橋のプレーには、何事にも恐れない大胆さがあった。青い弾丸の如く、西橋がラインを突破する姿は観客を魅了した。劣勢ムードの試合も胸を張り、ステップを切り加速しては果敢に攻め、一矢を報いる。西橋の生む一つのプレーが試合の流れを変え、チームを鼓舞した。
ジョーダン・ジャクソン=ホープ(東京ガス)は2021シーズンに横河武蔵野と対戦した際、一番印象に残った選手は西橋(11番)だったと明かしている。
「I would say the left wing was pretty dangerous whenever he got the ball(彼はボールを持つたびに危険な存在だった)」と称賛した。
ラストシーズンのリーグ戦に先発する日の朝、西橋は意外なほどリラックスしていた。
楽観的な性格なのか。会場に向かう車の中で、チームメイトと取り留めのない会話をしながら軽快な笑い声を響かせる。
会場に到着して着替えを済ませ、ひとたび白いラインの内側に入ると、しばらく周囲と距離を置いた。一人黙ってボールに触れながら、右手から左手へ、左手から右手へと渡らせる。次第にボール以外のすべての対象が、西橋の中からことごとく消えていくようだった。
こうして西橋は感覚を研ぎ澄まし、深い集中状態を作り出していたのだろう。キックオフの笛が鳴る頃には、別人に変わっていた。格段に引き締まった表情と目つきでラグビーに夢中になっている。
西橋がラグビーを始めたのは4歳のとき。当時、田園ラグビースクールでコーチをしていた父・久陽(ひさはる)氏の影響を受け、物心がつく頃にはすでに楕円球を追いかけていた。桐蔭学園、明大を経て2015年に横河武蔵野に加入した。兄はNTTコミュニケーションズのSH西橋勇人。
12歳の夏、ラグビースクールの菅平合宿で、「走らせて、走らせて、走らせまくる練習」ばかりさせられた。その甲斐あって練習試合には連勝した。しかし最終日のラストゲームで、最後の最後にトライを獲られて負けた。この悔しさが、『絶対に負けたくない』という強い気持ちを胸に刻みつけた。
学生時代はおもにCTBとして活躍した。
高校3年時、第90回(2010年度)全国高校大会で12番を背負い、母校に初の全国制覇をもたらした。名勝負と謳われた決戦(桐蔭学園 31-31 東福岡)には、同期に松島幸太朗、対戦相手に藤田慶和、布巻峻介など、錚々たるメンバーが名を連ねた。
大学2年時、初めて紫紺のジャージーを纏う。第83回(2012年度)関東大学対抗戦グループ優勝メンバーとなった。
「明大2年の時はやっとメンバー入りできたなあって感覚だったと思います。喜びよりも、『ようやく紫紺のジャージーが着れた』という安堵の気持ちだった気がします。優勝も嬉しかったのですが、正直なところ、兄(早大9番)と同じ舞台に立てたことが何よりの喜びでした。その試合で自分は控え(翌年13番を獲得)だったので試合には出られませんでしたが、秋にジュニア選手権で直接兄と対戦できました」
2014年2月におこなわれたトップリーグ入替戦を、ラグビースクールで1年先輩にあたる古澤陸(現:横河武蔵野PR)と観戦した。初めて横河武蔵野の試合を観た。それをきっかけに、チームの雰囲気やグラウンド環境を知るに至った。
「ここで頑張っていきたい、ここでラグビーをやりたいと思いました」
横河武蔵野のBKで度胸とスピードに磨きをかけた。快足に突破力が加わり、WTBとしての才能を開花させた。
「OBの方々、先輩方がいたからやって来られた。すごく優しかったし、うまいプレーヤーがいっぱいいた。トップリーグにいたってこともあったので、そういう人たちからいろいろたくさん吸収して、自分も成長できた」と話し、「それを後輩に還元できたかどうか…それはちょっとわからないんだけど」と言ってはにかむ。
そして最後に、「選手、スタッフ、OBなど、本当に素晴らしい人たちに支えられて、自由にプレーさせてもらえたことに感謝している。特に、アトラスターズとつなげてくれた、明大4年時の丹羽政彦監督と土佐忠麿BKコーチ(現:朝日大BKコーチ)に、深く感謝している」と衷心から謝意を表するように述べ、静かに現役時代にピリオドを打った。