タックルマン石塚武生の青春日記⑮(最終回)
実は本城さんにとって、石塚さんの存在は大きかった。初めてタックルマンを知ったのは中学2年の時だった。「なんで石塚さんを認識したかというと」と続けた。
「当時、石塚さんは大学生だった。メディアでトライするシーンの写真がよく使われるじゃない。トライのそばで必ず、写っている人がいるわけ。それが、石塚さんだった。藤原さんがトライする時も、植山さんがトライする時も隣で写っている。この人は誰だろうって。結局、石塚さんはよく走っているわけよ」
本城さんにとって、早大ラグビー部に入ることが目標となった。その過程として、國學院久我山高校に進学したのは、石塚さんの存在もあったからだった。同じアカクロのジャージを着た。同じ桜のジャージを着て、海外の強豪とも戦った。これも縁だろう。
本城さんの述懐。
「石塚さんには、すごくかわいがってもらったし、お世話にもなった。よくご飯にも連れて行ってもらった。何て言うんだろう、常に人生の決断をする時に出てくる人だったんだ」
本城さんは早大3年の時、日本代表入りした。
「石塚さんは素晴らしい選手だった。良くも悪くも、ストイックだった。いいのはさ、日常生活にそのストイックさを持ち込まないところかな。お酒も飲むしね」
こんなことがあった。日本代表の合宿でのことだ。当時は、キャプテンだけが宿舎で1人部屋だった。少し笑いを交えながら、こう続けた。
「最初にジャパンに選ばれた時かな。キャプテン部屋に呼んでもらって、いろいろと話を聞かせてもらった。言っちゃいけないかもしれないけど、石塚さん、眠れなくて、時々、寝酒をしていたんだ。部屋にはウイスキーのミニチュアボトルがあってさ。ラグビーに対する強い思いをどういう風にコントロールするか葛藤しながらやっていたと思うね」
石塚さんは英国挑戦から帰国すると、プロコーチとして、社会人の九州電力や東京農業大学などを臨時に指導した。定職はなく、生活は厳しかった。でも、ラグビーがあった。
2001年から5年間、日本ラグビー協会の普及育成担当などを務めた。2006年、茨城・常総学院高校ラグビー部の監督に就任した。
2009年8月6日、前日まで長野県菅平高原でコーチ合宿に参加していたが、突然死症候群でこの世を去った。享年57だった。2021年8月、13回忌を迎えた。
この連載を続けている間、何人もの人からメールや手紙をもらった。こんなものもあった。旧知の東郷さんからだ。
〈日本協会でも、伊勢丹でも、常総学院でも、誰よりも早く来ていたのですね
そして、孤高の印象。
常総学院では朝の交通整理。結局、最後はひとりぼっちでやられていたと聞きました。
僕たちのように、石塚さんを頼っていた人には、優しく接してくださいました。弱い者にとびきり優しく。
忘れません。2002年国立競技場。ジャパン対イングランドの試合。入場整理を石塚さんがやっていたのに驚きました。試合が始まると、バックスタンドで、僕たちの目の前でジャパンの応援団長となったのです。
「なぜ、そこまでやられるのですか。何をやっているんだ、と言っている人もいます」と伝えました。石塚さんは子どものように笑って言いました。
「ラグビーへの恩返しです。プライドは胸の奥にしまって」〉
最後に。
再び、本城さん。
「石塚さんは、頭の中にはラグビー界からの引退という文字はなかったんだと思う。とにかく、できるところまでいくということで、チャレンジされていた。そういう意味でラグビーに対する情熱は凄い人だよね」
刹那、言葉が途切れた。石塚さんをひと言で例えると。ラグビー発祥物語の伝説のエリス少年の生まれ変わり? と筆者が振れば、本城さんは「ははは。オレ、エリス少年、知らないから」とクールに笑った。
「そうだな。ラグビーに寄り添って、ラグビーを生きがいにして、ラグビーと共に生きられた人でしょ。だから、ラグビーを恋人というか、生涯の伴侶としたのでしょ」
ふと、ラグビーワールドカップ日本大会の年に流行った米津玄師の名曲『馬と鹿』のメロディーがよみがえった。バカとも読めるが、実は「高貴さ」との意味もある。
〈歪んで傷だらけの春〜♪〉
繰り返すが、石塚さんはラグビーにラブし、ラグビーをする人を大切にした。とくに子どもたち。石塚さんが遺した数冊のラグビーノートや資料をめくっていたら、長野・菅平高原の「初音館」というホテルの黄ばんだ便せんが一枚、ひらりと落ちてきた。
何だろう。よく見れば、テレビのチコちゃんと同じ5歳の女の子からの手紙だった。一生懸命に鉛筆で書いたのだろう、力強く、ぎこちない字がてんでバラバラに並んでいる。
〈いしづかさんへ
さいん してくれて どうも ありがとうございました また らいねんも きてください まってます いしづかさんのことは わすれません 5さい るみこより〉
石塚さんにとっては、宝物だったのだろう。励みだったかもしれない。その手紙を目にした時のタックルマンのはじけるような笑顔が目に浮かぶのだった。
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