コラム 2021.12.23
タックルマン石塚武生の青春日記⑮(最終回)

タックルマン石塚武生の青春日記⑮(最終回)

[ 松瀬 学 ]



 本城さんが、石塚さんから電話をもらったのは、1996年の2月下旬のことだった。休日で家のリビングでのんびりしている時だった。
「ヘッドコーチをやってほしい」
「ある程度、チーム作りを任せてもらえますか」
「もちろんだ」

 そんなやりとりがあって、本城さんはヘッドコーチを引き受けたという。「石塚さんはどんな監督だったの?」と聞けば、しばし考え、こう漏らした。
「石塚さんは、人を気持ちよくさせて、プレーさせるマネジメントがうまい人だった。そういうところは、非常に気を使いながらやる。やさしい。学生に対しても、突き放したような言い方は絶対にしないんだ」

 1996年度は、中竹竜二主将らが健闘したが、早明戦、大学選手権決勝と、二度、ライバル明大に敗れた。1997(平成9)年3月、早大は創部80周年記念事業として、全早大を編成し、アイルランド、英国遠征を実施した。
 忘れられないことがある。この時、筆者は共同通信社記者としてニューヨークに駐在していたが、遠征先のロンドンから電話をもらった。「イシヅカだけど。久しぶり」。突然の、懐かしい声に驚いた記憶がある。
「ニューヨークで元気にやっているか?」
 話の内容は忘れたが、そういった後輩思いの人だったのだ。

 1997年度、石塚監督が続投した。
 サントリーに勤務していた本城さんは業務の多忙もあって、グラウンドに行ける日が1年目より少なくなった。ヘッドコーチからバックスコーチになった。主力に故障者が相次いだこともあって、石川安彦主将らのチームは苦しんだ。
 早大は、秋の早慶戦で完敗、早明戦でも敗退した。大学選手権では2回戦で、大畑大介さんを要する京産大に18-69で敗れた。51点差は過去最多得失点差の屈辱だった。年を越すことができなかった。
 本城さんは言った。
「指導者として、石塚さんを男にしてあげられなかったのが残念なんだ」

 当時の和泉聡明主務はこう、『早稲田ラグビー100年史』に書いた。
〈常に伝統校としての旧き良き伝統・しきたりが根底にあった。白装束のジャージ、1年生の1時間前アップ、理不尽な科学を体現した新人練等。我々が伝統に依拠していた中で、依拠すべきものが無い新興系の大学は部活動の枠を超えた取り組みをしていた。当時は関東学院大の躍進目覚ましたかったが、天然芝のグラウンドで我々と全く違う練習をしていたのを覚えている〉

 石塚さんは失意の中、早大監督を辞任した。監督就任以来、東京・保谷市の東伏見のラグビー部寮に住み込み、ほぼ730日間、グラウンドに通いつめた。
 ただ、それほど情熱を注ぎこんでも、チームは勝てなかった。ショックだっただろう。石塚さんの独白。
〈何より自分を信じてついてきてくれた部員たちに、ラグビーの素晴らしさを教えてやることができなかったんじゃないか、と思えてきた。だから、この敗戦は自分のラグビーへの思いもすべて否定されかねないほどの重さがあった〉

 原点回帰だろう。石塚さんは11年間、在籍した伊勢丹に辞表を提出し、1998年、単身でイングランド・プレミアリーグの強豪「リッチモンド・クラブ」の門をたたいた。無給の控えチームのマネジャー、つまり雑用係となったのだった。
 書きたくないが、石塚さんは監督時代の部員の不祥事が発覚し、監督責任を問われ、一時、早大ラグビー部OB会を除名されたこともある。

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