コラム 2021.11.02

タックルマン石塚武生の青春日記⑧

[ 松瀬 学 ]
タックルマン石塚武生の青春日記⑧
1973年1月6日におこなわれた明大との試合前の一枚。最前列、右から4人目が石塚さん。(写真/BBM)



明大に劇的逆転負け。
「うるさい、だまれ!」
悔しくも恥ずかしくも。

 ヒーローの時代である。

 1973(昭和48)年1月といえば、新年 2日、東京・両国の日大講堂で行われたプロボクシング・WBA世界フライ級タイトルマッチで、王者・大場政夫が挑戦者・チャチャイ・チオノイ(タイ)を12回KOで破り5度目の防衛に成功した。
 身上の負けん気と色白で端正な顔つき。白黒テレビの画面のストレートの連打が、いまでも鮮やかに浮かぶ。

 その3週間後、白いスポーツカーに乗った23歳のチャンピオンは首都高速道路で中央分離帯を越えてトラックに衝突した。即死だった。
 現役世界王者のまま夭逝したため、「永遠のチャンプ」の称号が与えられた。

 さて、ラグビーである。石塚武生さんである。
 その年の1月6日、満員1万7千人の秩父宮ラグビー場。大学選手権決勝。第9回大会にして初めての早明の対決だった。真っ青な冬空のした、アカクロのジャージと紫紺のジャージが躍動する。冷たい風が観客のほおを刺す。

 アカクロのジャージの背番号7のタックルマンは枯れ芝のうえを走った。タックルして、倒れては、すぐに立ち上がる。また走って、またタックルした。
 早大は前半を9-3で折り返した。後半がはじまる。当時、2年生だった石塚さんは、セピア色のラグビーノートにこう、黒字で書いている。
<無の境地だった。後半も集中力は持続していた>

 早大は後半3分にもSO中村康司さんがPGを決めて、12-3とリードをひろげた。
 だが、ここから重量FWの押しを軸とした明大の反撃を食らう。2PGを返され、12-9となった。
 ラスト10分。ここはラグビー担当の名物記者、毎日新聞の池口康雄さんの格調高き記事を引用する。

<残り時間10分、1トライ逆転を狙う明治の攻めはまさに怒涛であった。ラックを連続して取り、パス攻撃をたたみかける。必死に防ぐ早稲田。
“いけいけ”の明治ファン。“タックルだ”と早稲田のファン。スタンドもグラウンドもひとつになってのつばぜり合い。
 そして、時計の針がノーサイド2分前を指したとき、ラインアウトからの展開のあと、ラックから好球が明治に出た。SH松尾雄治がうまく早稲田の守りの崩れを誘って、左WTB渡辺貫一郎までパスをつないだ。渡辺が一気にゴールラインぎりぎりのところで倒れ込んだ。
 喜びのあまり明治側のタッチジャッジが万歳したため、レフリーはタッチインゴールの外に渡辺が足をふみ出したかと思い、タッチジャッジに確かめてトライを宣して右手を高々と上げた。その間の一瞬の静寂からの歓声と嘆声、それはあまりにも厳しい勝負の分かれ目であった>(毎日新聞1973年1月7日付朝刊)

 結局、12-13でノーサイドの笛は鳴った。
 明大にとっては、初の大学日本一である。早大は大学3連覇の夢がついえることになった。公式戦連勝も「35」でストップした。

 当時は、対戦の両校のOBがひとりずつタッチジャッジを務めていた。福岡高出身の渡辺貫さんがタッチライン際を走ったサイドのタッチジャッジは明大OBだった。
 そのタッチジャッジが手を挙げたのでタッチかと思われたが、そうではなく、うれしくて、跳びあがって、バンザイをしたのだった。何というか、純朴な明大OBらしいではないか。憎めない。

 現在、早大ラグビー部OB会長を務める神山郁雄さんが半世紀前の決勝戦の結末を思い出す。69歳。その試合、神山さんは3年生で左フランカーの背番号6、つまり石塚さんとフランカーのコンビを組んでいた。

 10月某日。瀟洒なホテルの1階のカフェラウンジ。神山さんがこげ茶のテーブルの上のA4版の資料コピー用紙の白色の裏に右人差し指で両チーム選手の動きをなぞっていく。
 小指はラグビーの勲章か、第二関節で折れ曲がったままである。

「ほら、これが左ライン。ワセダが手前側で、メイジが向こう側でこう、こちらに攻めていた。相手ボール。左のここ(ラック)からボールを回され、ディフェンスが松尾にずらされるんだ。石塚も、かわされた。オレもブラインドからこう、戻るんだけど、届かなかった。最後は相手がタッチラインを踏んだかのように見えたけど…」

 早大の選手は幾人か、レフリーに詰め寄った。「タッチに出た」と。
 だが、その時、早大の宿沢広朗キャプテン(2006年没、享年55)が短い声を飛ばした。「やめろ!」と。

 神山さんの述懐。
「判定が覆るわけがないけど、“タッチを踏んだ”“踏まない”でもめかけた時だった。宿沢さんが、“うるさい、だまれ”って言ったんだ。それで、終わるわけ。みんな、それ以上、何も言えないよな。キャプテンが“やめろ”って言ったんだから」

 宿沢さんのスポーツマンシップ、キャプテンシーは抜群だった。石塚さんも、ラグビーノートにこう、書いている。
 <我々は泣き崩れた。でもバックスタンド前で宿沢さんが言った。「もう泣くのは、やめよう。最後まで堂々としていよう」と>

 石塚さんは自著では、<私には、負けたことより悔しいことがあった>と記した。
 <逆転トライのとき、松尾に私がディフェンスすべきサイドを抜かれたことである。どんな状況であろうと、自分のポジション、自分のエリアをついて抜かれたことが、悔しくも恥ずかしくもあった>「炎のタックルマン 石塚武生」、ベースボール・マガジン社)

 神山さんも、宿沢さんも、石塚さんも、ロッカールームに戻った。次の年度、宿沢さんからキャプテンを引き継ぐことになる神山さんが自分の言葉を思い出す。
「“来年、絶対、リベンジするぞ”って言ったのを覚えているよ」

 ヒーローの時代。この年、3年生以下でいえば、明大には松尾雄治さん、森重隆さん、笹田学さん、早大には藤原優さん、植山信幸さん、そして石塚武生さんがいた。
 メイジ復活。早明黄金時代がラグビーブームを築いていく。



当日のスタンドはファンでぎっしりだった。(写真/BBM)

タックルマン石塚武生の青春日記はこちらから読めます。

PICK UP