【ラグリパWest】もう5年になるか…。山口良治 [伏見工元監督]
監督就任6年目での日本一は、テレビドラマ『スクール★ウオーズ』のモチーフともなり、全国津々浦々に伝わった。決勝戦の涙も含め、山口は「泣き虫先生」と呼ばれる。
平尾は同志社に進んだ。
「のびのびやれたんがよかったと思う。押しつけられへんかったしね」
部長の岡仁詩は過度な上下関係を嫌い、自由な発想を尊んだ。平尾は2年時から、大学選手権を3連覇する。この数字は帝京の9連覇までは最長だった。
神戸製鋼では主将として、日本選手権と全国社会人大会(リーグワンの前身)の7連覇を達成する。選手としての日本代表キャップは35。現役引退後、1999年のワールドカップでは、監督として日本代表を率いた。神戸製鋼ではGMなどをつとめた。すべてのルーツは京都工学院となった伏見工である。
出世を重ねても、恩は忘れない。
山口の孫、小村健太が高校進学を国内か海外かで悩んだ時、アドバイスを送った。
「家に来てくれて、1時間ほど話をしてくれた。社会情勢や企業の考え方なんかを交えてね。教員という狭い世界で生きて来た自分とは違い、色々な面からの助言だった」
小村はニュージーランドに渡る。ハミルトン・ボーイズで高校を終え、帝京に進学。今年は最上級生になった。弟の真也も兄をトレースする。この春、帝京に入学した。監督の岩出雅之は山口の日体大の後輩にあたる。
2015年のワールドカップでは、開催地のイングランドで会食をする予定だった。
「ロンドンに美味しいレストランがあります、って教えてくれた」
その時、平尾はすでに渡航できない体だった。病気のことは伏せられた。周囲は「先生の耳に入れるな。心配する」と慮った。
生きていたら、どうなっていたと思いますか? 死児の年を数える愚を承知できいた。しばらく無言のあと、言った。
「そら、協会の会長ぐらいしてるやろ」
平尾さんを一言でたとえると。
「理知的。表に出す前に、細かく分析をする。状況を見る」
そういう教え子はいましたか。
「いない」
即答だった。
寺本、岡、亀高素吉ら平尾に強い影響を与えた人々は鬼籍に入った。亀高は神戸製鋼の社長や会長を歴任、7連覇を支えた。
その中を山口は生きる。教え子のことを語り継ぐ。残る者の大切な使命である。