【ラグリパWest】ひろお先生、逝く。岡本博雄 [淀川工元監督]
岡本博雄は7月8日、永眠した。
高校ラグビーの有名指導者は71歳。平均寿命より10歳ほど若かった。
闘病は1年ほど。ひと月前に悪くなった。故人の意向で病名は非公開、葬儀は近親者のみですませた。
岡本は大阪の淀川工(現・淀川工科)で全国大会に7回出た。選手として2、監督として5。この府立校は13回の出場歴がある。
岡本がラグビーを始めたのは旭区の旭陽中。隣の都島区の高倉中には大西健がいた。京都産業大を47年率いた元監督は、啓光学園(現・常翔啓光)から天理大を選んだ。メールに岡本への思いをつづる。
<彼とは中学、高校と同級でよきライバルでした。とてもよい選手で社会人ラグビーの大鉄局に進みましたが、退社して日体大で指導者の道に進みました。ご存じのように淀川工では名物監督として活躍し、たくさんの選手を京産にも送ってくれました>
当時の淀川工は高校屈指だった。岡本はセンターとして全国大会に連続出場。高1の45回大会(1966年)はチーム初の4強入りに貢献する。盛岡工に3−3と抽選負けも、勝者は天理を6−5と下し、初優勝する。
卒業後はJRの前身である大阪鉄道管理局に就職する。休日の山登りでバスケットボール部の顧問だった大内田節夫と再会。岡本の運動能力を惜しんだ大内田は母校の日体大への進学をすすめ、力を貸す。
「あの時、先生と再会してなかったら、俺は鉄道マンで一生を終わっていたかもしれん」
日体大の1年時(1969年度)にはチームにとっても初となる日本一を味わう。第6回大学選手権は早稲田に11−9、続く第7回日本選手権でも富士鉄釜石(釜石シーウェイブスの前身)を29−13で破った。
卒業後、和歌山で保健・体育の教員になる。2年目を終えた1975年、母校の淀川工に帰る。大内田が再び動いた。
「先生は、俺の枠を空けて岡本を呼び戻す、と話しておられました」
土井崇司は当時を知る。東海大大阪仰星を歴代5位、全国優勝5回の名門に育て、今は東海大相模の校長をつとめている。
土井もまた大内田の教え子である。岡本と入れ替わりで異動した金岡(かなおか)で、部活指導をバスケからラグビーに変える。土井はバックスとして競技を始めている。
「仰星創部の時は弱くてね、どこも相手にしてくれなかった。そんな時でも、岡本先生は、いつでも来い、と気軽に練習試合を引き受けてくれました。ありがたかったですよ」