コラム 2021.07.26
【ラグリパWest】ひろお先生、逝く。岡本博雄 [淀川工元監督]

【ラグリパWest】ひろお先生、逝く。岡本博雄 [淀川工元監督]

[ 鎮 勝也 ]
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 仰星の創部は1984年。土井が作った。同年、岡本は監督として初めて全国大会に出場する。64回大会は3回戦敗退。優勝する秋田工に6−32。当時、仰星と淀川工の力は隔絶していたが、岡本は弟弟子を大切にする。

「あそこで全国に出られへんかったら、俺は監督をクビやったんやで」
 岡本は笑ったことがある。赴任10年目。日体大譲りの猛練習がようやく実る。夏合宿はスクラム200本やランパス1時間などを課した。ラグビー部の創部は1947年(昭和22)。岡本の就任まで8回の全国大会出場があった。うるさいOBは多かった。

 その最高位は選手時代と同じ4強進出。68回大会(1988年度)では茗溪学園に7−32で敗れた。この大会の決勝戦は昭和天皇の崩御で中止。大阪工大高(現・常翔学園)との両校優勝となっている。

 監督としての出場回数5は赴任した1975年以降、大阪の公立校ではトップ。島本の4を上回る。教え子にはパナソニック元監督の中島則文やNTTコミュニケーションズのフォワードコーチである斉藤展士がいる。

 岡本は40年以上も淀川工にかかわる。60歳の定年後は5年ある再任用期間をここで過ごした。その後は、近隣の小学校の学童保育指導員になった。保護者が働いている子供たちに、放課後、勉強などを教えたりする。

 小学校には中型バイクで通った。50歳で免許を取る。妻・眞知子は振り返る。
「病気が悪くなる1か月くらい前まで、学童にバイクで通っていました」
 最後まで教育者だった。

 人は必ず世を去る時が来る。
<どんな人生でも、その終末から逆算すればちゃんと帳尻が合っている、という考え方がある>
 司馬遼太郎は『台湾紀行 街道をゆく40』(朝日文庫)に書いた。日本兵として出征した台湾人が密林に潜み、29年を経て帰郷する中の一文である。彼は台湾で幸せに暮らし、5年ほどしてガンで亡くなる。

 岡本は淀川工科の中興の祖となった。定年と同時にその功績をたたえ、現監督の農端幸二(のばた・こうじ)を中心に「HERO CUP」(ヒロオ・カップ)が開かれる。今年12回目。昨年はコロナ禍で中止になったが、今年は来月21、22日の2日間、近隣の中学28校を集める。その農端もまた弟弟子。土井の後輩として金岡から東海大に学んだ。

 岡本の長男・吉隆は43歳。高校では監督と選手になる。大学は大西に学ぶ。現在は北摂つばさ高のラグビー部顧問。同じ府の保健・体育教員となり、孫娘の英茉(えま)にも会わせてくれた。

 司馬の書いたように、岡本の人生もまたその帳尻は合っている。

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