【コラム】ぎこちなさの理由
函館ラ・サールのように、すなわち全国の大多数の高校のように「たまたま入学した人間でチームをそのつどつくる」立場では、濃い線で描かれた海図を用意せずに、ひとまず思い切り船を漕いでこい、と送り出す方法では、ただ迷い沈むだけだ。だが「ボール保持のみ」で立ち向かうと、どこがよくて、どこがまずかったがわかる。思考の「軸」ができる。
佐賀工業に敗れた後刻、部員は宿舎の外に集まり、大いに意見を交わし、翌日の熊谷工業高校戦では、ボール保持と展開のバランスをとる方針が決まった。黒星を反省、実感にもとづいて「次の手」に踏み出す。終了の笛から数時間でチームも個人も進歩した。「ただ負けた」のではなしに「これに徹したら負けた」からだ。ぎこちなく映ったラグビーには少なくともそうする理由は存在した。
翌朝の熊谷工業戦。さらに負傷者が何人か重なり、いよいよ布陣は苦しいのに、前日より確実に前へ進んだ。10-26の敗戦。前半は5-7。そこに集中してきたボール保持力を手放すわけでなく、競技歴の浅い選手が並んでミスはどうしても起きたが、ボールをなんとか動かせた。
ラックを刻んでユーズ・イットまたユーズ・イット。これを神戸製鋼コベルコスティーラーズやサントリーサンゴリアスがゲームで何度も遂行したら批判されてよい。でも、ある高校が明らかに格上だろう対戦校に勝ちたいと、スリムなチャンスをあきらめず、ここという機会に用いるのはあってよい。
ラグビーの試合リポートを書き、放送解説もする。函館ラ・サールについては情報があったので上記のようにとらえられた。しかし、いきなりモールいっぺんとうの高校を目撃したら「いただけませんな」と口に出しかねない。まさに自戒だ。
もちろん硬直した指導者が「ユーズ・イット連続」で若者の可能性を奪う例はあるだろう。なぜ、こんなにぎこちないのか。「勝利の可能性の追求」でなく「この監督だから」では青春がかわいそうだ。境界は、絞り切った戦法を全部員が前向きに深く考え実践している否かにある。一見すると選手が考えなくてよさそうなスタイルやシステムこそ考える人がいて成立するのだ。