国内 2021.02.02

原点のサッカー経験、先輩司令塔の助言…。中大・津田貫汰、ゴール10割成功の背景。

[ 向 風見也 ]
原点のサッカー経験、先輩司令塔の助言…。中大・津田貫汰、ゴール10割成功の背景。
11月15日の法政大戦でゴールキックを蹴る中央大の津田貫汰(撮影:長岡洋幸)


 試合がある。戦う理由はそれで十分だった。

 2020年12月5日、埼玉・熊谷ラグビー場。国際試合などで用いられる「Aグラウンド」に併設された「Bグラウンド」にあって、中大は加盟する関東大学リーグ戦1部の最終戦に挑んだ。

 ここで勝っても、目指していた全国大学選手権へは出られない。開幕からの6戦で1勝1分4敗としており、選手権出場枠にあたる3位以内から漏れるのは必然だった。

 しかも、下部との入替戦回避という意味付けもできない。

 開幕前、「全試合実施後、入替戦前に、新型コロナウイルス感染症の影響による大学から出場辞退の申し入れがあった場合、入替戦は開催しない」と定められていた。シーズン中、公式戦1試合を辞退するチームが出たことで、その特例が適用されたのだ。中大はシーズン終了を前に、2季続いた入替戦への出場記録を他力で止めた。

 第三者にはモチベーションの維持が難しそうに映るが、当事者にとってはそこにゲームがあること自体がモチベーションの源だった。

 2年の津田貫汰は、川勝自然主将の名を挙げて言う。

「4年生とできるのもあと少しでした。当初の目標は達成できないけど、川勝組のやってきたことが正しかったと証明しようと思ってきました。自分のなかには『選手権に出られないからちょっと…』というのはなかった。このチームで、残りの試合を勝ちたい。そう強く思っていました」

 接戦を演じた。ライバルも必死だったからだ。

 今季昇格し1勝5敗の関東学院大に先制されたのは前半10分。続く12、21分にトライとコンバージョンゴールを1つずつ決めるも、同16、25分にはそれぞれ3、5得点ずつ与えた。14-11とわずか3点リードで前半ロスタイムを迎えた。

 ハーフタイム直前にCTB青山真の個人技でフィニッシュも、後半10分までに加点されて21-18とわずかに先行するのみ。ある程度、試合の流れを傾かせたのは、同25分になってからだ。

 グラウンド中盤で左右に球を散らすなか、司令塔のSOだった津田は「(パスを)振っても突破できず、自分たちが疲れる印象があった」。一転、テンポを緩め、得意のキックに切り替えた。高い弾道を放つ。

「相手にボールを渡すリスクはあるけど、自分たちのディフェンスをやればプレッシャーはかけられる」

 目論見通りだった。中大は敵陣深い位置の落下地点へと駆け上がり、まもなく攻守逆転。ゴールラインを割った。28-18。

 思えば11月15日、埼玉・セナリオハウスフィールド三郷での法大戦では、ロングキックで陣地を支配しながら23-28と惜敗した。「長いキック一辺倒だった。アタックの形を作ったうえで蹴るなど、バリエーションをつけたい」。22日の専大戦(東京・江戸川陸上競技場/〇 21―10)までに、その課題を改善していた。

 若者たちの試行錯誤の積み重ねが、貴重な得点と化したのだ。

 中大は結局、「Bグラウンド」で28-25と2連勝を記録する。マン・オブ・ザ・マッチに輝いたのは、4本のキックをゴールに沈めた津田だった。

 殊勲の10番は、今季先発の3試合で計12度あったペナルティゴール、コンバージョンゴールを全て成功させている。

「振り返ってみれば、外した機会がなかったという感じ」と述べ、本番で動じぬ心を示す。

「試合で緊張感を味わうなかのほうが、より集中して蹴られる」

 身長181センチ、体重90キロとサイズにも恵まれる青年は、小学1年の頃から藤沢ラグビースクールへ通った。兄で現在大学4年生の拓海さんの影響による。

 キックを磨けたのは、その兄もプレーしていたサッカーのおかげだ。

 近所の「スカイブルーSSSサッカースポーツ少年団」で、有名高出身のコーチが丸い球を強く、遠くへ飛ばすのに感銘を受けた。おもに土曜日はサッカーに充て、日曜日は「午前中はラグビー、午後はサッカー」というハードスケジュールで汗を流すこともあった。

 サッカーは小学6年まで続け、高浜中入学後は一時バスケット部へ携わり、1年の冬頃からラグビー部へ在籍。藤沢ラグビースクールと掛け持ちをしながら、自主練習で蹴りまくった。

 国内屈指の強豪校、桐蔭学園高へ進むと、厳しい部内競争で自ずと成長を促された。高校3年で全国大会のメンバーに入り、長短織り交ぜた足技を利して準優勝を果たす。

 中大の門を叩いたのは、藤原秀之監督の勧めがあったからだ。藤原監督は、中大の正SOで年代別代表にも加わる侭田洋翔を高く評価していた。

 待っていたのは、険しい道のりだった。津田は1年目、リーグ戦でのベンチ入り機会を2度しか得られなかったのだ。捲土重来を期していた今季も、社会情勢の変化に苦しむ。

 3月下旬に4月中旬からの関東大学春季大会が中止となり、「たぶん、夏(の練習試合)もできないんじゃないか」と直感。「で、実際、その通りになった」。リーグ戦が始まる10月4日までの間、他チームとの合同練習機会は3度だけだった。その間も、津田は侭田の後塵を拝した。

 苦境にさいなまれながら前向きに話すのは、競技者としての矜持からだろう。

「試合を経験するなかで成長する自覚があったので、その機会が少なくなったことには残念な思いもありました。でも、そのなかでやるしかないと切り替えました。貴重な一試合、一試合で成長するにはどうすればいいかを、余計に考えさせられました。部内戦は組まれたので、そこで自分の力を出そうと思っていました」

 高校時代の恩師が買う侭田からレギュラーを奪えぬまま、リーグ戦3試合を消化したあたりだったか。

 松田雄監督のもと指揮を執る遠藤哲ヘッドコーチへ直接、試合に出られない理由を聞きに行ったことがある。防御やゲームコントロールなど「自分ではわかっていた」という問題点を改めて認識した。

 目を覚ました。以後、日々の防御練習では「ディフェンスでは恐怖心を持ったらだめ。それは、自分でしか変えられない」と、確実に肩を当てるよう努めた。

 他方、自信も失わなかった。「出たら、やれる(通用する)」と己に言い聞かせ、得意のキックを研ぎ澄ました。

 現実と向き合い、かつ自分を見失わなかったことで、法大戦でつかんだチャンスをものにしたのだった。

「初先発の法大戦では、チームでもキックを戦術的に使っていこうとしていたおかげで自分のプレーが出せました。大学に入ってから、ゴールキックをかなり練習してきた。試合に出られない時もゴールキックが自分の強みだと、試合に出てもここは通用すると自覚していました。結果が出たのは嬉しく思います」

 一生に一度の特異なシーズンが終わって脳裏に浮かぶのは、そのシーズンで学生生活を終える4年生たちの姿だ。

 本来の司令塔たる侭田も、その1人だった。

 試合に出始めた津田に対し、けがで戦列を離れながらも惜しみなく助言を送る。公式戦中はマスクをはめて給水係に徹し、津田にその時々の打つべき手を耳打ちした。

 津田は認める。侭田の存在感に行く手を阻まれたのも事実だが、侭田の存在感に背中を押されたのもまた事実だったと。

「自分は周りを使うことに徹してしまい、前を見る余裕を持てないことがあったのですが、そういう時はコンバージョンゴールを蹴る前にこちらへ来て『前を見たら、スペースが空いているから』と。侭田さんはけがで練習もできていない状況でした。そのなかで経験してきたことに基づきアドバイスをくれたのは、心強かったです」

 スパイクを履かずとも信頼された先輩は、トップリーグのクボタへ巣立った。まもなく3年生となる津田は現在、実家に帰省して「体力と体重は落ちないように」とじっくり身体を動かす。

「チームを引っ張る立場になることで成長できると思う。シーズンがどうなるかはわかりませんが、去年の結果を超えられるようにしたいです」

 緊急事態宣言の発令中のため再始動のタイミングが流動的ななか、上級生として未来を見据える。

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