国内 2021.01.16

天理大学特集! 10年前からぶれない小松節夫監督の指導スタイル(1)

[ 編集部 ]
天理大学特集! 10年前からぶれない小松節夫監督の指導スタイル(1)
2011年7月6日、取材に応じる小松節夫監督。当時48歳(撮影:前島進)

 1月11日、大学選手権で早大を破り、初の日本一になった天理大。その指揮を執ったのが、監督就任26年目となった小松節夫氏だ。2011年には初の決勝進出(準優勝)を決める少し前に、ラグビークリニックの取材に応じている。そこには、10年経ってもぶれることのない小松監督の指導方針があった。第1回は、小松監督がフランスに留学した時までを振り返る。(4回連載・第1回)

ラグビークリニックVol.26掲載(2011年7月6日インタビュー)
文◎村上晃一

小松節夫[天理大学監督]
Coaching My Way

今季の大学ラグビーで、ひときわ注目を浴びているのが、関西の古豪・天理大学だ。
春シーズン、Aチームは神戸製鋼に敗れただけで、学生相手には全勝。
6月26日、いま絶好調の筑波大との定期戦も36-7で下し、評価を裏付けた。
だがそれは、一朝一夕に出来上がったものではない。
天理大学が強豪として名を馳せたのは1980年代。
84年度には大学選手権ベスト4まで勝ち進んだが、その後は低迷。
92年度には関西大学Cリーグにまで転落した。
降格した翌年にコーチに就任、20年ちかくかけて確固たる「天理ラグビー」を築き上げたのが、小松節夫氏だ。

 進境著しい天理大学を率いて19年目のシーズンになる。

 1984年度には全国大学選手権準決勝まで進んだチームは、1992年度、関西大学Cリーグまで転落した。その再建を託されたのが、小松節夫監督だった。

 目標を失ったチームをコッコツ鍛え上げ、昨季は遂に関西大学Aリーグを全勝で制覇し、大学選手権では大東文化大学に三桁得点で勝利。2回戦では優勝候補の東海大学を苦しめた。小さな体格を補う運動量と、防御を翻弄する俊敏な攻撃は、多くのラグビーファンに好感を持って支持されている。

 ラグビーのコーチといえば、情熱ほとばしる熱血漢が多いが、小松監督の口調は穏やか。既存の考え方にとらわれず、感情論にも走らず、ラグビーの構造を吟味、熟考して選手達に伝える冷静な指導者である。

 天理高校時代はCTBとして高校日本代表に選出され、卒業後は、フランスに留学。語学学校に通うかたわら、パリのラシンクラブのジュニア(20歳以下)で2年間プレーした。帰国後は同志社大学、日新製鋼と進んだが、この間、コーチングの勉強は一度もしていない。異色の経歴の中で、その指導哲学はどのように育まれたのか。

――指導者になろうと思ったのはいつですか。

「フランスにいるときです。語学学校でいろんな会話をする。そのとき将来何になりたいの?と質問されて、引退したらコーチをやりたい、と答えました。漠然とですけれど」

――ラシンクラブでは、どんな練習をしていたのですか。

「ラシンは総合スボーツクラブでした。ラグビー場が10面くらいとれそうな大きな芝生のグラウンドがあり、僕が所属したジュニア(20歳以下のカテゴリー)の練習は、週に1回。試合も週1回です。20歳以上のシニアは、週2回練習し、週末に試合。チームの練習内容もシンプルで、試合で使うサインプレーも3つくらいしかなかった。今のようなフェイズを重ねるラグビーではなかったですからね」

――フランスでの経験は指導に影響していますか。

「僕は小学校4年生で天理のラグビースクールに通い始めた。これが楽しくて、天理中学でも楽しくラグビーに取り組みました。それが天理高校に入ると完全に管理された厳しい練習が連日続いた。放課後が来るのが嫌だったくらいです。ところが、フランスに行くと、週1回の練習であとは自分でやれ。あまりに極端でしたが、自分で考えること、自由な発想などを学びました。余談ですが、僕はジュニアの一軍で、シニアの二軍と一緒に行動するんです。僕が2年目のとき、元フランス代表キャプテンのジャン・ピエール・リーブが移籍してきました(1982年度)。だから一年間は一緒に行動していましたよ」(続く)

PICK UP