トップリーグ目指して留年も外出できず。東海大・横井隼の2020年。
横井隼は、明るい口調で迷いなく言う。
「自分は頭もよくないんで、いいところに就職して…というのも…。親孝行するなら、ラグビーでするのが一番、自分のなかでやりやすいと思います」
楕円球と出会ったのは大阪の玉川中。野球部にも興味があったが、最初にラグビー部へ体験入部をしたら、あまりに体格がよかったからか周囲に抜け出せない雰囲気を作られた。それがよかった。人生を切り開けたからだ。
寮生活を始めた島根・石見智翠館高では、3年時に全国4強入りした。卒業後は関東地区へ移住。当時の2015年度までに関東大学リーグ戦1部で6度優勝の東海大の門を叩いた。各所へ散った旧知の同級生や先輩に話を聞きまわるうち、高いレベルでプレーするほうが楽しいのではと直感していた。
大学卒業後に国内トップリーグのクラブへ進みたいと思うのも、自然な流れだった。
身長181センチ、体重98キロ。身体をぶつけ合うFWの選手にあっては決して大柄ではないが、防御が揃う箇所へ怖らずに突っ込み、突破できる。
「一番、目立つ瞬間。かっこいいじゃないですか」
強靭な身体と勇気で、東海大3年時からLOの定位置をつかんだ。
最終学年を終えても、望む形では進路を決められなかった。
2020年に「5年生」として大学に残ったのは、春先からチームの試合に出て再び関係者へアピールするためだった。本当は卒業して海外へ出ようとも考えたが、木村季由監督に「(日本に)残った方がチャンスはある」と諭され留年を決めた。
「単位は取っているので、普通の授業料よりは少なくしてもらっています」
まずは、各クラブのスカウトが集まる関東大学春季大会で勝負するつもりだった。
しかし、誰も予測できなかった社会の変化が、その見取り図を大きく狂わせてしまった。
チームは4月に一時解散。ゲームの日程も白紙となった。
「はじめは、なんでこんな時期に…と…」
寮に用意された一人部屋で、自問自答の日々を送った。行きついたのは、試合がなくなる決定は自分では制御できないという簡潔な答えだった。
では、自分で制御できるものは何か。身体を大きくしたり、スタミナをつけたりすることなら、自分次第でできそうだった。
「どうしたらトップリーグに行けるかを考えた時、フィットネス、身体の大きさをつける必要があった。それはこの状況でも、できることだなと思って、見つめ直そうと」
普段通う湘南キャンパスへの入構が禁じられていた時期、いくつかのウェイト器具を寮に持ち込んでいた。下半身を鍛えようと、肩にバーベルを乗せてスクワットを重ねる。以前は「調子がよくて120キロで10回」だったところ、いつしか「140キロ」で同じようにできる日も増えた。
もともとチームで測定していた1キロ走は、人の少ない公園で自主的におこなった。何度かストップウォッチを回すうち、「初めの頃より10~20秒は縮まった」。進化を実感できた7月頃には、チームの活動も徐々に息を吹き返していた。
8月下旬には、横井のトライアウトを企画するクラブも現れた。日々の検温結果をメモにまとめ、空席の目立つ新幹線で先方の本拠地へ出向いた。
1泊2日の旅で得られたものは、卒業後のプレー環境だった。
「うまく動くこともできなくてしんどい時もあった。環境も変わった。ですけど、練習の強度は、変わっていないです」
残された大学生活はあとわずか。東海大の一員として、リーグ戦3連覇、1年時は決勝へ進んだ大学選手権での初優勝を目指す。
10月4日のリーグ戦開幕前にできた練習試合はわずかに1つ。限られた準備のもと、手探りで結果を求めている。11月15日までに開幕5連勝も、いまはまだ発展途上だと認める。
「試合中にうまくいかないことはいまもあります。試合中の修正力を意識してやっています」
NO8の吉田大亮主将が自分にも他人にも厳しい熱血漢であるのを認め、「練習で(すべきことを)やっていない選手を怒るのは大事ですけど、言い方は気をつけた方がいいよとは言ったかもしれないです」。組織を俯瞰しながら、部員100名超の大所帯を進むべき道へ進める。
「僕たちは日本一にはなったことがないですし、何が正解かはわからない。そんななか、楽な方へ逃げないシーズンを過ごしたいです。しんどいこと、しんどいことを自分たちで選んでいくチームになりたいです」
21日には東京・秩父宮ラグビー場で、流経大との全勝対決に挑む。2度目の「大学4年生」を体験している背番号5は、見せ場のぶつかり合いで優位に立ちたい。