【ラグリパWest】待っている子供たちのために。角田眞章[大阪・平野西小学校校長]
角田が本格的に競技を始めたのは高校から。ラグビーとは重なる縁があり、天理に入る。
2歳の時に亡くなった父・孝雄は同校から近鉄に進み、天理大の監督もつとめた。
育ての父は孝雄の弟の規智雄(きちお)。経歴は同じ。ともに旧姓は増田だ。
実家は大阪・十三(じゅうそう)にある天理教の和睦(わぼく)分教会だった。
現役時代は173センチ、75キロ。フォワードだった。当時の純白ジャージーは西日本一となる戦後3回の全国優勝を誇っていた。
チームは毎年、花園に出たが、角田の試合出場はない。3年時の60回大会(1980年度)は、3回戦で保善に13−40で敗れた。
猛練習、厳しい上下関係、寮生活に耐えながら、結果を得られなかった。
「ラグビーをすんのが嫌になりました」
その時、関口満雄に言われた。
「そんなこと言わんと、もう1回頑張れ」
普段は厳しいことしか言わなかったコーチが珍しく優しく諭してくれる。
「その言葉があったから、続けられました」
人生は一言で変わる。身をもって経験する。その恩人はすでに鬼籍に入っている。
同期は小松節夫や岡田明久。天理大の監督とFWコーチである。岡田は角田を評する。
「あいつはほんまええやっちゃ。勝つたんびにお祝いの電話をくれる。同期が勝つんがうれしいんや、って言うてな」
大体大を選んだのは監督の坂田好弘が2人の父と同じ近鉄出身だったこともあった。
2年時にHOとしてリザーブに入り、大学選手権(19回=1982年度)に出場する。初戦で明大に22−41と敗北した。
同期は息子の高校3年間を託した梅本勝。現在は部を立ち上げた倉敷の監督である。
指導の一線からは身を引いてはいるが、角田はラグビーとともにある。
昨秋の運動会は10月6日にあった。日本がサモアを38−19で下した翌日だ。
仮装リレーで、優しく、人を助ける部分を尊敬しているアンパンマンにふんした。ラグビーボールを持って走る。大声援を受ける。
ゴール寸前でゴロパントを蹴る。
「絶妙の転がり方をしました。田村君ばり。やったー、トライや、と思って飛び込んだら、あばら骨が2本、折れました」
ラグビーで培った自己犠牲の精神は、いくつになっても忘れない。