【ラグリパWest】69歳。教えは続く。 小林耕司[大阪・摂津一中教員]
「その時は3年の担任だったので15人集まりました。でもその後が続かなかった」
子供たちが遊ぶ公園に偶然を装って現れる。「うどんを食べよう」と車に乗せる。行先は高校全国大会開催中の花園ラグビー場だった。
同好会なのでグラウンドがない。
「練習はそのへんの公園や淀川の堤防まで自転車で行ったり、朝早く学校でやってました」
ハンドボール部が休部になり、ようやく校内に地所を確保。1983年に部に昇格した。
一中には16年つとめた。部ができて9年間で府大会には4回優勝している。
教え子はその指導を振り返る。
「タッチフットが毎日ありました。タックルなしの試合形式の練習も多かったですね」
楽しいことを真ん中に据えた。
転勤した摂津五中には10年籍を置いた。後年、日本代表キャップ3を持つ選手を育てる。CTBの金澤良だった。
「ジャパンに入るなんて、全然おもてない。カラ(体)が小さかったからね」
当時を振り返り、小林は笑う。
金澤は174センチ。大阪工大高(現常翔学園)から法大、そしてリコーに進んだ。激しいタックルを中心に技術を磨き、2010年のアラビアンガルフ戦で初キャップを獲得。NTTドコモに移籍後、2013年度で現役を引退する。
同級生には俳優になる高橋光臣がいた。TBSドラマ『ノーサイド・ゲーム』で中心的役割を果たす。啓光学園(現常翔啓光)から東洋大に進んだFLだった。
「金澤はサッカーから、高橋はバスケットボールから引っ張ってきました」
それぞれ中2と中3に部活変更。小林がラグビーの魅力を伝えていた証しだ。
その後、一中に戻り、60歳定年を迎えた。さらに5年の再任用を受ける。
「最後が中2の担任でした。キリよく、もう一年やらせてもらいたいなあ、と思っていたら、残らせてもらえました」
66歳からは講師の肩書。中3生を送り出した後は、支援学級を受け持つ。
「できないことができるようになる。そこに成長がある。(隠居して)ふらふらしていたら、こんなに素晴らしいことには出会えません」
小林はラグビーのよさを「優しさ」と言う。
「自分ひとりでは点を取れない。仲間と一緒なら点を取れるんです。だから、まわりに優しくなれる。生きて行く上でも大事なことやと思います」
得たものは支援学級でも生きている。
昨年からテニス部の第3顧問にもなった。今でも生徒の中にいる。この春から教員生活45年目。ラグビーを軸に培った経験と人間性を周囲はまだまだ手放さない。