【ラグリパWest】大西先生、お疲れさまでした。 平田政喜&橋本俊治(京都産業大OB)
平田政喜と橋本俊治。
2人は京都産業大がもっとも強い時代に籍を置いた。学生日本一に手が届きかける。
この春、ラグビー部を率いた大西健が引退する。教授職は70歳定年。監督職は教え子で2人の後輩でもある伊藤鐘史に譲った。
大西が指導を始めたのは1973年。47年の歳月が流れた。平田は言う。
「先生には人生の基礎を教えてもらいました。ひとつのことを突き詰めていく。そんな生き方を先生から学ばせてもらいました」
愛称は名前の「しゅんじ」も続く。
「先生には感謝しかありません。今、僕があるのは先生のお蔭です」
同級生2人が入学したのは1997年4月。出身高校は大阪の布施工(現布施工科)。平田はNO8、俊治はSHだった。
3年時の全国大会は76回。決勝戦は啓光学園(現常翔啓光)が西陵商(現西陵)に25−26と1点差で惜敗する。布施工はその啓光学園に府予選決勝で18−22と敗れた。チームは全国優勝のレベルにあった。
2人の肩書は国体の選抜チームであるオール大阪と高校日本代表候補。しかし、入学後、その猛練習に気持ちは萎える。
「あんなにすごいとは知りませんでした」
俊治は振り返る。
大学ではそのはしりであろう朝練習が1時間半ほどあった。ウエイト中心。アームカールで使うバーベルは30キロ。俊治のサイズは165センチ、55キロだった。
「朝ごはんの時、おはしを持つ手がずっと震えていました」
毎日のグラウンド練習は夕方から3時間。FWはずっとスクラムを組み続ける。押されれば、インゴールまで走り、また組む。
春は北方の雲ケ畑まで往復20キロの山道を走った。折り返し地点に大西が立っている。
「まだ楽でした。半日で終わりますから」
それは1時間35分の設定タイムを切れた者のみ。30秒遅れるごとに、グラウンド横にあるスタンドの上り下りが1本ついた。
2人で逃げる算段をする。俊治は夜中に寮を抜け出し、公衆電話の受話器を握りしめる。
「オヤジに大学は出とけ、と怒られました」
平田は自身の家庭環境を思い返した。
「僕は母子家庭でした。母親に学費を出してもらっていましたから」
秋の戦績で忍耐は少し浮かばれる。
3年ぶり3回目となる関西リーグ制覇。第34回大学選手権では部の最高である4強に入った。初優勝する関東学院大に38−46。8点差は、この大会での関東学院大の試合、そして京産大の7回の選手権4強入りの内で、もっとも競ったものになる。
平田は新人ながら正位置を勝ち取り、この試合も先発している。182センチ、75キロの体には速さと強さが宿っていた。
京産大の主将はFB大畑大介。神戸製鋼で日本代表キャップを58に積み上げる。
誤算はスクラムがいなされたこと。
当時、左PRが内に入る京産大に対し、関東学院大はトイメンの右PRも同じ内に向けて組んできた。横に流れ、安定しない。