【ラグリパWest】久保家の三代目。 久保太陽 兵庫・報徳学園ロック
久保家のラグビー三代目は太陽である。
兵庫・報徳学園の2年生ロックとして、年末年始の全国大会に出場する。
「楽しみです。ラグビーを始めてから花園はあこがれでした。お客さんがいっぱいいて、自分が一番輝ける場所だと思います」
太陽の父・正彦、そして、祖父・正道もともにラグビーマンだった。
特に祖父は伝説の高校監督である。大阪の浪商(現大体大浪商)を強豪に仕立て上げた。
「おじいちゃんは僕が生まれる前に亡くなりました。花園の特集みたいな本を父に見せてもらったら、おじいちゃんが載っていて、すごい人だったんだなあ、と思いました」
太陽に示されたのは『花園90周年』(ベースボール・マガジン社)。祖父が肝臓がんで世を去ったのは1989年8月17日だった。
太陽の誕生は2002年11月5日。13年のちになる。
祖父は三重・木本から日体大に進んだ。180センチ近いロックだった。群青ジャージーの同期には國學院久我山の中村誠、目黒(現目黒学院)の梅木恒明、中京大の金澤睦(むつみ)など指導者として名を成した者が多い。
1962年(昭和37)に浪商に保健・体育教員として赴任。張本勲らを輩出した野球部を横目に、血気盛んな高校生たちを仕込む。
フォワード出身だけにスクラムは3時間。試合に負ければ、当時、茨木にあった学校まで走って帰らせ、練習をした。
猛練習が実を結び、8年後の49回大会で全国初舞台を踏む。花園には9回出場した。最高位は57回大会(1978年)の4強。0−29と秋田工に完敗するも、全国大会の『80回記念誌』には<浪商のベスト4の健闘は今後の大阪のラグビー界を面白くするだろう>との一文が載った。70〜80年の10年間は大阪工大高(現常翔学園)と2強時代を築いた。
ただ、60回大会出場を最後に勝てなくなった。父・正彦は理由を話す。
「ほかのチームが強くなってきました」
島本、茨田(まった)、牧野、阪南、淀川工、布施工、同志社香里、啓光学園(現常翔啓光)などが台頭。群雄割拠の時代を迎える。
祖父は父が社会人1年目に逝った。
「がんになったのはお酒の飲みすぎでした」
全国に行けないストレスがアルコールに向かったのだろう。享年52だった。
父は茨木ラグビースクールの創設(1976年)に合わせ、小4から競技を始めた。
高校は熱心に誘ってくれた愛媛・新田を選ぶ。1年からスタンドオフでレギュラー。3年間、花園出場を果たす。高3時の64回大会(1984年度)では8強に進出。相模台工(現神奈川総合産業)に3−29で敗れた。
高1の秋、父は祖父から手紙を受け取る。
「全国大会の予選、お互い頑張ろう、と書かれてありました。普段はあまりしゃべりませんでした。だから、恥ずかしさを感じて、電話ではなく手紙にしたのだと思います」
丸刈りにサングラス。長身に甲高い声。無頼の徒を思わせる風貌だったが、底には優しさがあった。知人の小学生の息子がグラウンドに顔を出すとお小遣いを紙幣で渡した。
祖父の墓所は大阪の北摂霊園にある。家族がお参りに行くと、花が供えられていたりする。父には感謝がある。
「今でも誰かが来てくださっているようです。ありがたいなあ、と思います」