【ラグリパWest】哲学を持つ。
1966年度、近鉄はチーム初の2冠を達成する。社会人大会決勝ではトヨタ自工(現トヨタ自動車)に15-3。その後の日本選手権では早稲田大を27-11で破った。
当時、中島は持病の腎臓が悪化。前年度で監督を退任していた。
大会前、ロックの中山久が首を痛める。後任監督の福田廣から代役の相談を受けた。
サンケイスポーツの記者だった津田一己はその状況を『50年史』につづっている。
<中島前監督は『うしろから実際に押させてみないことには…』と、腎臓病で入院中の日赤病院には『上六へちょっと買い物に行く』と断り、ナイター練習中の花園へ…>
中島はフッカーだった。
日本代表キャップは2。近鉄の現役だった1952年、オックスフォード大との2試合(0-35、0-52)に出場した。立命館大出身者としても12人のキャップホルダーの先鞭をつけた。その経験をもとに、現役を相手にスクラムを組み、重さをフロントローに伝えられる選手を選別する。
抜擢したのは高卒2年目の前田弘だった。
<さすがに中島さんの目は確かであった。全国大会では、この前田がみごと期待に応えて完ぺきな代役をつとめ、おかげで近鉄は実力を出し切って優勝。ハズミをつけて第二期黄金時代へと前進した>
日本選手権は1967年1月15日。当時は固定された成人の日に行うのが慣例だった。
中島は栄光を確かめた約2か月後、3月25日、ひっそりと逝く。男盛りの47歳。ラグビーで倒れることは本望だった。
中島は熱だけの人ではない。楕円球を突き詰める。理論もあった。
1959年、新聞表記は「カナダ」のブリティッシュ・コロンビアを近鉄が単独チームとして破る。スコアは16-9だった。
日本代表は2戦1分1敗。花園では17-21、秩父宮では11-11である。
中島は外国人対策として、日本人が持つ「初動が早く起こる優位性」をいかにして発揮するかということに心を砕く。
その結果、攻守のラインを浅くさせる。
<アタックは従来のごとく比較的余裕のあるラインではなく、横にボールを回し、パスされた瞬間において相手のディフェンス・ラインを突破する>
本人が『50年史』に書いたのは、フラットラインである。
ディフェンスも<あさく>させた。
いわゆるシャロー。飛び出させる。
攻守ともに今のラグビーの王道を行く。
日本ラグビー史に燦然と輝く勝利がある。
ジュニア・オールブラックス(ニュージーランド代表の下のカテゴリー)を日本代表が23-19で破る。この快挙は1968年。中島の戦勝はそれよりも約10年先んじていた。
2冠の前年、1965年に同志社大から加わった坂田好弘は今でも尊敬の念を抱く。
「すごい監督やった。病気になってもグラウンドに立ち続けておられた」
今年9月、喜寿を迎える関西ラグビー協会会長が直接指導を受けたのはわずか1年。しかし、その威厳を忘れない。ウイングだった坂田はジュニア・オールブラックス戦にも出場。最終的にキャップを16獲得した。