コラム 2018.10.30

高校ジャパン出身の最初のドクター。 外科医・小山太一

高校ジャパン出身の最初のドクター。 外科医・小山太一
高校日本代表で医師となった小山太一さん。この9月から実家の小山医院に戻った。
 高校日本代表が初めて結成されたのは、1971年(昭和46)のことだった。
 以来50年近くの年月が経った。のべ1000人以上が紅白のジャージーを着る中に、医師になった男がいる。
 小山太一である。
 今、トップレベルの大学では医学部学生がピッチを賑わしている。
 慶應のスタンドオフ・古田京であり、筑波のフランカー・中田都来である。
 小山はそのはしり。ラグビーと医学。その2つの道を究めた。
 1989年度の高校日本代表は25人が選ばれた。3月18日から4月10日まで、スコットランドに遠征する。小山には草木の緑や建物の赤レンガの鮮やかさが残る。
「芝がキレイで、毎日にわか雨が降りました。クラブハウスであったアフター・マッチ・ファンクションでは文化を感じました」
 現地では6戦して5勝1敗。最終戦のU18スコットランド代表に23−28と惜敗した。
 小山は右ウイングで2試合に出る。初戦のケルビンサイド(34−0)と5戦目のエディンバラU19(41−10)。最終戦は、脱臼グセのあった右肩を痛め、不出場だった。
 主将だった増保輝則(私立城北→早稲田大、現神戸製鋼アドバイザー)は振り返る。
「タイチ君はいつも笑っているイメージ。温厚でした。僕はあのチームで中間管理職。先生方とチームメイトに挟まれていました。その中で彼は精神安定剤的な存在でした」
 監督は荒川博司。常翔学園が大阪工大高だった時代の全国優勝4回すべてに関わった。コーチは川村幸治。大阪の公立・布施工(現布施工科)を全国大会に3回導いた。
 小山は大阪トップの進学校・北野に入学後、ラグビーを始めた。チームは、旧制中学時代に5回、全国大会に出たことがある。
「強かったから入った訳ではありません。広いところを走り回れるのが魅力でした」
 中学時代は野球をやった。盗塁以外にグラウンドを駆け回りたい本能がうずく。同期には関西学院大の現監督・牟田至がいた。
 高1で花園を経験する。67回大会。46年ぶりの快挙に、観衆があふれる「北野旋風」が起こる。2回勝ち、3回戦の伏見工(現京都工学院)に12−16で敗れた。
 レギュラーのウイングは後年、大阪府知事や大阪市長になる橋下徹。小山はほかの1年生らとスタンドから応援する。
 全国レベルを体感し、自分を磨きまくる。
「とにかく走りまくりました」
 練習を終えて帰宅すると、食事を摂った後、さらに1時間程度の走り込みを課す。いつしか50メートル走は5秒8になっていた。
 高3になり、3回あった高校日本代表の選考合宿にはすべて呼ばれた。最後は大学入試のセンター試験と重なった。
「医学部を狙って、通る成績じゃあありませんでした。思い出としてラグビーをやって落ちた方がいいということになりました」
 両親らと相談の上、テストは受けなかった。チームはその秋、府予選準決勝で柏原(現東大阪大柏原)に0−12で敗れていた。
 高校日本代表では、世代最高の同級生たちから多大な影響を受ける。
「人生をかけてやっている人が多かった」
 プロップの江森隆史(京都花園→大東文化大、現花園大監督)は、ケガを苦にしない。
「ヒザのじん帯が切れているのに、筋肉で固めて、スクラムを押し続けていました」
 センターの寺尾道広(天理→大阪商業大、現大阪府警)からは、試合にかける意気込みを教わる。
「花園の決勝は真っ白で出てきました。鼻が折れたのをテーピングで固めていました」
 天理はジャージーもパンツもストッキングも純白。小山の目には一色に映った。
 センターの元木由記雄(大阪工大高→明治大、現京都産業大ヘッドコーチ)からは、弱い者、仲間を守る強さを感じる。
「線の細い選手が試合で飛ばされました。それを見て笑った高校生らを『一生懸命やっている人間をバカにするな』と一喝しました」
 すべてを鮮明に覚えている。それらは小山の精神を形作る。
 この遠征メンバーからは増保や元木など6人がフル代表になった。
 小山自身はラグビーで進学する気はなかった。2浪して京都府立医大に合格する。医学部にこだわったのは、開業医である父・春海(はるみ)の存在が大きかった。
「今考えると、高校時代から潜在意識の中で父の跡を継ぐという思いがあったのでしょう」
 ただ、大学生活6年のうち、最初の4年はラグビーができなかった。入学後に体を壊した。その代わり、医学の習得は順調。専門は胃や食道を診る消化器外科を選ぶ。
 この9月まで勤務医だった小山は実家に戻る。二代目となる小山医院は北区西天満にある。東は大阪高裁など司法が集まり、西の御堂筋(みどうすじ)を越えれば、銀座と並び色とりどりのネオン輝く北新地がある。
 大阪の一等地で診療をしながら、小山はラグビーを選んだ正しさを痛感する。
「今はチーム医療って言うでしょう? 医師や看護師たちには、絶対にコミュニケーションが必要なんです。その大切さを僕はラグビーから学びました」
 話す、聞く、情報を共有する。試合に勝つための10代での出来事が今に生きる。
「トップアスリートから医師を目指す選手が、もっと出て来てほしいですね」
 1つの道だけでなく、2つの道を究めれば、その世界観は違ってくる。当然ながら難易度は高い。ただ、優秀な頭脳と体を授かった人間は、そこに立ち向かえる幸せがある。
 そして、小山のように得難い経験ができれば、人生はより一層豊かになる。
(文:鎮 勝也)

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