コラム
2017.10.06
コリン・ミーズの来日
コリン・ミーズが亡くなった週末、NZのほとんどのラグビー会場で黙とうが捧げられた(Photo: Getty Images)
2017年8月20日、NZラグビー界の巨星、コリン・ミーズがすい臓がんのため、81歳で亡くなった。主にLOとして、1957年から1971年まで、およそ15シーズンをオールブラックスとして計133試合に出場し、テストマッチは55試合。現代の1年に15テストマッチという割合で計算すると、225テストマッチ相当だという。全部の出場は無理としても、軽く200テスト以上になるだろうといわれている。
現代の選手と違い、州代表のキングカントリーでも139試合に出ており、さらにワイテテ・クラブの試合にも出場していた。
ニックネームのパイントゥリー(松の木)は1955年に、オールブラックスで同僚でもあったタラナキ代表のHOロジャー・ブーンが、ニュープリマスの道路を歩く長身のミーズの姿から名付けたそうで(諸説あり)、あまりにピッタリの命名ゆえに、これ以外のニックネームはないということだ。
1958年3月、オールブラックスが来日した。宣伝ポスターには「オールブラックス来(きた)る」と書いてあった。ウィルソン・ウィナレー主将のオールブラックス・コルツ(来日してからコルツと呼ばれ、日本協会の記録では今もこのチーム名)に、21歳のミーズが参加していた。当時ボクは8歳8か月の小学1年生の終わり頃だった。秩父宮での試合の通しチケットを買った父に連れられて、3試合見に行った。ウォークライ(当時ハカという呼び方は一般的じゃなかった)を初めて見たのもこのときである。
早稲田の日比野弘さんのお宅で、学生時代の先生が快足を駆ってオールブラックスに対抗する、そのときの試合のビデオを見せて頂いたことがある。
協会の機関誌に、チーム招聘のいきさつが載っている。そこには、1955年にオールブラックス・コルツがオーストラリアとセイロン(現スリランカ)に遠征した同じような編成のチームを日本に派遣したいとの話があって、そのチームをオールブラックスと呼んでよいかと尋ねたところ、構わないという返事を得たとある。それがポスターにオールブラックスとある理由だと思う。
おそらく来日してから向こうがチーム名はオールブラックス・コルツだと言い出したものと想像している。正式なチーム名が決まったのは帰国後のことである。23歳以下で編成されたNZアンダー23代表、来日チームをきっかけに、この代表カテゴリーはNZジュニアズ(オールブラックス・ジュニア)と呼ばれることになった。やがてU23の縛りは廃止される。現在、このカテゴリーは休止状態にある。
(文:小林深緑郎)