各国代表 2016.04.30

歴史を変えた。沖縄初の日本代表キャップホルダー、韓国代表戦で2人誕生。

歴史を変えた。沖縄初の日本代表キャップホルダー、韓国代表戦で2人誕生。
大勝に笑顔のふたり。知念雄(左)と東恩納寛太。(撮影/松本かおり)

 歴史を変えた。
 4月30日は、沖縄のラグビーにとって特別な日となった。同日におこなわれたアジアラグビーチャンピオンシップの日本×韓国にて、沖縄出身で初めてのキャップホルダーが誕生した。しかも、ふたり。

 85-0とジャパンが圧勝したこの試合。まず先発で3番を背負ったPR知念雄(ちねん・ゆう)が、沖縄最初のキャッパーとなった。ラグビーを本格的に始めて2年でジャパンに。スーパーラグビーの開催期間、サンウルブズの活動と時期が重なったことも選考の背景にあるとはいえ、驚異的なスピードで進化しているからこそ、テストマッチの舞台に立てた。
 那覇西高校、順天堂大学とハンマー投げのトップ選手として活躍した。オフのトレーニング代わりに取り組んだラグビーでのプレーぶりを聞きつけた東芝に誘われて、2014年度は練習生としてチームに在籍。昨季はトップリーグデビューを果たし、3月に開催された『ワールドラグビー パシフィック・チャレンジ』ジュニア・ジャパンの一員として出場した。その舞台での活躍と将来性を見込まれて今回の日本代表に選出。体幹の強さと、逞しい下半身を活かした強力なボールキャリーで評価は高い。

 試合前日、知念は冷静だった。
「緊張という点では、ハンマー投げ時代の日本選手権ときの方がナーバスになっていました。個人競技ですから、ウォーミングアップ時も含めひとりだとし、孤独なんですよ。自分だけの世界に入るのもルーティンなので。でもラグビーは、いつも隣りに人がいくれる。仲間がいる。パシフィックチャレンジのとき、国歌斉唱をする試合もありました。そういうときも、みんながいてくれるから安心感があるんです」
 沖縄ではラグビーをやったことがない自分が同県初の日本代表キャップ獲得者となることに対して、「(同郷の)いろんな方たちが目指してきたものに自分がなれるなんて。素直に嬉しいです」と相好をくずした。
「試合ではセットプレーを安定させたい。チームの基盤を作れるか。そこに集中してプレーします」

 その言葉通り、試合でもスクラムで圧力をかけた。この時期、沖縄では『シーミー』(清明祭/親族が墓前に集まって先祖供養をおこなう)と呼ばれる伝統行事がおこなわれ各家庭とも忙しいが、その合間を縫って駆けつけた母・専子さんの前で「やれることはやり切った」と言えるパフォーマンスを披露した。
 キックオフ直後に巡ってきたファーストスクラムではグイッと押し込み、WTB山下一の先制トライを呼んだ。中竹竜二ヘッドコーチ代行は、そのシーンを「フロントローはよくやった」と愛でた。スクラム以外のシーンでもタックルで激しく体を当て、何度もボールを前へ運んだものの(独走も!)、本人は、「いまはハンマー投げ出身ということで注目されていると思います。プレーで評価されるようにならないと」と足元をしっかり見る。
 五輪出場からワールドカップ出場に変えた夢を実現させたい。本気だ。

 背番号16をつけてベンチスタートだった東恩納寛太(ひがしおんな・かんた)も、後半13分にピッチに立ち、キャップホルダーとなった。名護高校出身。帝京大、キヤノンでプレーを続けて着実に力を伸ばし、ついにジャパンのキャップを手にした。
 試合前、自分が桜のジャージーを胸にテストマッチに出ることで、「沖縄の人たちの勇気になればいいし、沖縄でラグビーをやっている人、後輩たちが、自分たちもやれると思ってくれたら嬉しいですね」と話した。そんな気持ちをプレーでも実証した。

 先発の北川賢吾に代わってピッチに入った直後のスクラム。東恩納が左PR、知念が右PRだった。鋭く、まとまり、思い切り押した。相手の反則を誘った。
「試合に出るまで緊張していましたが、スクラムで押せた。結構いいプレーはできたと思います。ただ、ディフェンスで抜かれたところもあった。もっともっとハードワークして、セットプレー以外でもアピールしていかないといけない」
 リザーブではなく、先発の座も手にしたい。プレーの幅をもっと広げたい。大学日本一も経験している男は、さらにクォリティー高いプレーヤーを目指している。いつもジャパンのフロントロー候補でありたい。

 年代別代表時の姿も知る中竹ヘッドコーチ代行は、今回のジャパンで東恩納と再会し、成長ぶりに驚いた。
「以前は黙っていたのに、自分の考えを言えるようになっていたし、理解力がすごく高まっていました」
 韓国戦でのプレーに関しても、「しっかりしたスクラムと低いタックルを見せてくれた」と、途中出場プレーヤーの役割を果たしたと評価した。
 今回の日本代表選出時、名護高校時代の恩師、宮城博先生からすぐに電話がかかってきた。東恩納が高校を卒業した春に、先生も定年退職で教壇を去った。最後の教え子となった自分のことを、先生はいつも気にかけてくれた。
「U20日本代表に選ばれたときや、いろんなことがあるたびに報告させてもらっていたのですが、今回は先生からの連絡がはやく、僕が連絡をもらうような形になりました。それだけ喜んでもらえたのだと思います」
 教え子が沖縄で初めてのテストマッチプレーヤーになったのだ。その日の泡盛の味は格別だっただろう。
 恩師をはじめ、お世話になった方たちの笑顔。夢見る後輩たち。そして、沖縄の人たちの希望。東恩納寛太は、それらを自身のエネルギーに、さらに上を目指す。

PICK UP