ラグビーワールドカップを巡る旅 (第4回)1991年大会 2 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)
W杯2015イングランド大会が開幕する9月18日夜の、トゥイッケナムのオープニング試合(日本時間19日午前4時開始)では、きっとこんなシーンが見られることだろう。(コイントスに勝ってホームの扱いとなったため)白ジャージーを着たフィジーの猛攻を、必死で耐える(アウェー扱いの)赤いジャージーを着たイングランドを応援して、観客席のラグビー母国のサポーターたちが歌う『スウィングロー・スウィート・チャリオット(以下スウィングロー)』の大合唱がラグビー場にこだまする……。
話は、いまから24年前のW杯1991大会に戻るが、準決勝からの4試合を観るために英国へ向かった筆者には、『スウィングロー』というアメリカのブラックスピリチュアル(黒人霊歌)が、なぜトゥイッケナムのイングランド人サポーターの間で歌われるようになったのか、この謎を解こうという目論見もあったのだ。
で、その調査結果を載せたラグビーマガジン誌1992年1月号の、私のコラム『トライライン』、タイトルは『あの歌は一体なんなの?―30人に聞きました編』から要点を抜粋してみることにする。
まず、私のなぜ?の質問に答えてくれたイングランド人がみな、「スウィングロー」の歌を、自国のオリジナル曲だと思い込んでいたのである。これには当惑した。つまり、あの歌がアメリカの黒人霊歌だということを誰も知らなかったのだ。そうした驚きの発見もあって、アメリカとイングランドを結びつける明快な答えは見いだせなかったのだが、質問した2人の相手からヒントを得ることができた。
ひとりは、ロンドンのチャリングクロスロードにあるスポーツ専門書店「Sportspages」のオーナー氏で、「スウィングローはラグビーパブや試合後のファンクションで自然発生的に歌われだした曲、その後、イングランドのラグビーサポーターに広まったもの、と自分は認識している。正確にいつからとはいえないが、この数年内に起こった現象だ」、と教えてくれた。
もうひとりは、W杯閉幕後の11月6日、ロンドンのイースト・インディア・クラブで開かれたIRB(現ワールドラグビー)の理事会終了後の記者会見の会場で、私の質問に答えてくれた、英国のラグビージャーナリスト。「イングランドのサポーターがスウィングローを歌うことについては、特別な理由などないんだ。ただ、この曲はイングランドの伝統的なラグビーソングとして以前から歌われていた背景がある。ラグビークラブのバー、パブ、それにファンクションでは、みながそろってラグビーソングを歌うわけだよ。そうした場所でスウィングローが流行りだしたのは4年前くらいからだな。この2シーズンの間に急速に広まって、今ではこの曲がイングランドの応援歌になったという次第さ」。
というような話がコラムには書かれている。少し説明を加えれば、スポーツ専門書店「Sportspages」は、筆者が良く本を注文していた店で、店を訪ねたのはこの時が2度目だったと思う。オーナーのジョン・ガウスタッド氏はNZ出身で、1985年にこの店を開店している。この時は、購入する本をカウンターに積み上げたら、突然向こうから「あなたはミスター・コバヤシか?」と話しかけられたので、ビックリした。そして、彼こそ質問すべき相手だと気付いたのだった。
もうひとりのジャーナリストとは、ラグビー界の知恵袋として知られる、BBC放送の実況キャスターのイアン・ロバートソンのことである。当時、この知恵袋も、「スウィングロー」がアメリカのブラック・スピリチュアルだという筆者の指摘には沈黙するだけだった。
ロバートソンは、現役時代はSOとして、ケンブリッジ大でプレイし、スコットランド代表8キャップを持つ。怪我のため引退し、教師を経て、BBCラジオ/TVのコメンテーターとなり、後に、W杯2003の決勝戦のウィルキンソンの優勝決定DGを、巻き舌のスコットランド訛りで実況することになる。
筆者がその他の20数名に質問した場所は、主にロンドンのハラム・ストリートに在った『ラグビークラブ』というレストランのバーを根城に、訪ねて回った。クラブオーナーの元イングランドの名CTBジェフ・バタフィールドが亡くなって、いまはもう店はない。
そうそう、コラムのなかで、W杯1991が開催中のトゥイッケナムのショップに、イングランド代表のメンバーが歌っている『スウィングロー』のレコードを売っていた(多分CDと両方販売されていたのだと思う)ことを報告している。
このレコーディングに関しての話は「everyhit.com」の記事によれば、W杯1991の音楽担当プロデューサーを務めたチャーリー・スカーベック(Charlie Skarbeck)が手掛け、アビーロードスタジオで録音された「スウィングロー」は、英国のシングルチャートで16位に入ったということだ。
また、NZのソプラノ歌手キリ・テ・カナウによる『ワールド・イン・ユニオン』も、彼のプロデュースで制作され、シングルチャートの13位を飾ったそうである(*1)。
以上が1991年当時の調査結果と若干の補足説明である、そして24年後のいま現在、「スウィングロー」がイングランド・サポーターの応援歌/アンセムになった経緯についての「定説」は次のようになっている(インターネット上の出典は後ろにまとめて付記しておく)。
トゥイッケナムにおいて、イングランド・サポーターによる『スウィングロー』の大合唱が始まったのは、1988年の5か国対抗選手権が最終週を迎えた、3月19日のイングランド対アイルランド戦の試合中だった。
この年の5か国対抗で、イングランドはそこまで3戦1勝2敗、ノートライというトライ欠乏状態にあった。この試合も前半を、アイルランドに0-3とリードを許していたのだが、後半に入って流れは一転し、イングランドが一気に6トライを奪って、35-3の大勝利を手にしている。いわゆるトライ・フェスタ(祭り)のなか、観客席もタガが外れたような騒ぎになったことは、容易に想像できる。
そのなかで、この試合が2キャップ目、トゥイッケナムでのテスト戦に初お目見えの、WTBクリス・オティがハットトリック、3トライの大活躍をしている。そして、オティはロンドン生まれのナイジェリア系の黒人選手だった。本ワールドカップを巡る旅の連載第1回(今年1月22日付け)で1986年9月に英国へ遠征したジャパンが、相手のイングランド学生代表のWTBに4トライを奪われた話を書いたが、彼がそのオティである。
さて、「スウィングロー」がイングランドサポーターの応援歌になった経緯は、簡易な解説では次のように紹介されている。「1988年3月19日のトゥイッケナムで、クリス・オティが3トライ目を挙げると、黒人WTBの活躍にインスパイアーされた観客から、ブラック・スピリチュアル(ゴスペル)の『スウィングロー』の大合唱が起こり、それ以後、『スウィングロー』はイングランドのサポーターのアンセムとして定着することとなった」というものだ。
さらに詳しい解説では、最初に『スウィングロー』を歌いはじめたのは、この歌を学校のアンセムにしている、ベネディクト派のカソリック系パブリックスクールのドゥエー・アビー校(Douai Abbey School 1999年に廃校)の4人の生徒だという。彼らが、オティのトライの後に歌いだし、付近の観客が唱和し、彼の3トライ目の後にはスタジアム中に『スウィングロー』の大合唱が広がったという話になっている。(*2a)(*2b)
2015年2月に、英国のBBC放送が、最新の『スウィングロー』発祥の調査をした結果を、彼らのサイトに載せている。それによると、1988年の試合当日に、われわれが最初に『スウィングロー』を歌いはじめたと名乗りを挙げているグループが、全部で4つあるそうだ。
北スタンド(ゴール裏)で応援していた、マーケット・ボズワース・ラグビークラブ(ウォーリックシャー)のグループのひとりによれば、この歌は彼らがクラブハウスで日常的に歌っている曲で、後半最初のローリー・アンダーウッドのトライ直後から歌いはじめたので、自分たちが一番最初だという。そして、特にクリス・オティを意識したものではないということを話している。
BBCはこの記事のなかで、ドゥエー・アビー校の例のように、もし黒人のオティのトライを賞賛するのであれば、『スウィングロー』のようなアフリカ奴隷の苦しみを歌詞とする曲を歌うのは、不適切なのではないのか、という疑問を呈している。(*3)
ここで、オティのハットトリックから3年後の1991年の筆者の調査へ立ち戻るのだが、聞き取りをした30人が『スウィングロー』をイングランドの曲と思い込んでいたこと、アメリカのブラック・スピリチュアルだという認識がなかったことを思い出して欲しい。
この点から類推して、筆者は、1988年には、まだ多くのイングランド人が、「スゥイングロー」が黒人霊歌であると認識していなかったと考えている。オティの3トライが引き金となって、トゥイッケナムの「スゥイングロー」の大合唱が発生したことに疑いはないのだが、オティが黒人なので「スゥイングロー」が歌われたとする解釈で、両者を結びつけることには大いに疑問がある。繰り返すが、1988年当時、大多数のイングランド人は「スゥイングロー」が黒人霊歌だとは知らなかったと考えられるからだ。
ここに、1994年10月30日のロンドンの「インデペンデント紙」電子版に載っているクリス・オティの記事がある。(*4)主たる内容は、W杯1991のオールブラックス戦におけるオティのプレイを振り返ったのだが、1988年の例のハットトリック・トライへの言及はあるのに、「スゥイングロー」についてはひと言も触れられていない。
つまり、1988年から6年後のこの時点で、オティ=黒人霊歌=スウィングローという3点セットの発祥物語は、まだ誕生していないものと推測できる。広くイングランド人に「スゥイングロー」がアメリカの黒人霊歌であるという認識が浸透して初めて、オティ=黒人霊歌=スウィングローという3点セットの物語が成立するのである。
BBCの記事が呈している、なぜ黒人奴隷の歌でオティを賞賛したのかという疑問への答えも、当時のイングランド人の多くが、「スゥイングロー」が黒人霊歌だという認識がなく、イングランドのオリジナル曲だと思い込んでいたということなら、説明がつくはずだ。
(*1) http://www.everyhit.com/stories/swing_low_sweet_chariot.html
(*2a) http://www.englandrugby.com/about-the-rfu/history-of-the-rfu/swing-low-sweet-chariot/#
(*3) http://www.bbc.com/news/uk-england-leicestershire-31147766
(*4) http://www.independent.co.uk/sport/my-own-goal-chris-oti-1445721.html
ラグビーマガジン誌1992年1月号掲載コラム『トライライン』の、『あの歌は一体なんなの?―30人に聞きました編』は、後日筆者のフェイスブックにアップの予定です。
【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。
(写真:イングランド代表のファン。彼らの大合唱は選手たちを奮い立たせる/Getty Images)