ギョウザ耳列伝 vol.9 山賀敦之
山賀敦之
(埼玉・朝霞西高―帝京大―セコム)
これほど陽気な人もいない。天然の明るさ、根っからの「元気」である。周りが、いつもハワイの太陽を浴びているように輝いている。
晩秋の駒沢オリンピック公園でも、そうだった。赤色、黄色、だいだい色の紅葉が目に冴える。雲ひとつない青空と冷たい空気。かつての五輪選手の誇りがしみ込んだ陸上競技場の薄暗い通路だった。
トップイースト・リーグのセコム×東京ガスの試合前のことだ。遠くに台車を押している人の後ろ姿があった。なぜか、そこだけ、空気がおどっている。ユーモラスな体型。つるつるのスキンヘッド。これは、と思い、足早に近づいて、ちょっと耳を見れば、やっぱりギョウザ耳だった。
「山ちゃん?」
ビンゴ! 山ちゃんこと山賀敦之である。ラグビー界随一のエンターテイナー。誰からも愛される「ザ・プロップ」。40歳ながら、いまなお現役。心はスクラム(と嫁さん)にのみ向かっている。
ただネクタイのスーツ姿である。この日は裏方の雑用係。どうしたのですか? そう聞けば、ここから、ざっと10分間、笑いが止まらない山ちゃんの近況説明がつづいた。
「(つい間板)ヘルニアの神経障害がひどくて…。ふつうの私生活でも足がしびれています。オペやらないと治らないようなので、正直、厳しいです」
ということは、そろそろ引退?
「ええ。検討中です」
冗談はご勘弁を。そういえば、山ちゃんは先週、入院していたそうなのだ。ヘルニアですか? ケガですか?
「いえいえ、違います。10月末から1週間、病気で入院しました。熱40度です。エボラ出血熱ではありません。インフルでした。ノドに細菌が入ったための急性扁桃腺でした。ただ会社が原宿にあるじゃないですか。まじめな話、デング熱かと思ったんです」
山ちゃんは額に汗をだらだら流しながら、手振り身振りで、自身の災難を説明してくれるのだった。こちらが、内心、うつされるのではないかと後ずさりすれば、「うつんないすよ」と笑いながら、スクラムのバインドのごとく、どどっと歩み寄ってきた。
「病院で40歳の誕生日(10月30日)を迎えました。ええ、なかなかないことでしょ。これは、やばい、厄年のせいだと思って、退院してすぐ、(神社に)厄払いしたいって電話をかけました」
摩訶不思議である。つらいストーリーのはずなのに、軽妙な語り口のせいか、こちらはつい愉快な気分になってしまう。
埼玉県出身。ラグビー一筋に生きてきた。帝京大ラグビー部では一番下のチームからレギュラーにはい上がった。その努力のしるしがずばり、ギョウザ耳である。
「耳って、ギョウザになりやすい耳と、なりにくい耳があるんです。ぼくの耳はやわらかくてゴムみたいなので、なりにくい耳なんです。でも、なりました」
山ちゃんが、つぶらな目を閉じる。20年ほど前の記憶がよみがえる。大学2年生の下積みのときだった。「A、B、C、D、E、FのFの時です」。つまりは一番下のチームの左プロップの時である。
「下のチームだから、Aチームの移動スクラムの台でした。まじめな話、あの頃、泣きながらスクラムを組んでいました。いまの3番(右プロップ)はみんなまっすぐというか、内側っぽく組んでくるじゃないですか。でも当時の3番って、みんな外に頭を振ってきた。ガツンと。すぐ首をとられて、こうやって、自分のチームのSOが見えちゃう。ははは」
そう言いながら、頭をくるっと左側に向けるのだ。この話、分かる人には分かる。イメージできない人には、100万語使っても理解してもらえない。
「連日、ライブスクラムですから。当時、いいスクラムマシンなんてありませんでしたから。もうライブ、ライブ、ライブ。毎日、50本は組んでいたと思います。夏合宿はもう…。おおお〜。シーズンに入ると、下のチームはやることなくて、スクラム、スクラム、スクラムですから」
ある日、フツーの練習の日だった。「あれっ」。右耳が内出血したかのように膨れ上がった。まずは氷で冷やした。病院には?
「病院には行っていません。いや、行った、行った。あまりにも痛くて、病院に血を抜きにいきました。ひっこんだけど、またスクラム組んだら膨れて。耳が痛いからスクラムを組めませんって言えないじゃないですか。とくに下のチームだったし…」
山ちゃんは顔をゆがめる。コンクリートで固めていた辛い記憶である。
「スクラムを組み続けていたら、いつのまにか固まっていました」
固まったら、スクラムが強くなった。とことん研究し、とことん練習した。筋力トレーニングにも燃えた。ついには帝京大のレギュラーの1番(左プロップ)を張り、セコムでもスクラムを支えてきた。準日本代表の「日本A代表」に選ばれたこともある。172センチ、105キロ。ユーモラスな体型で、いつもぴちぴちのラグビーパンツをはいて試合をする。
ラグビー専門誌の選手名鑑では写真撮影にこだわり、花を耳にさしたり、妙な顔をつくったりの「変顔」で一世を風靡した。
そういえば、紺色スーツの上着の裏地のネームのところに<1対1やりませんか>と白糸で刺繍していたことがある。もちろん、スクラムの1対1のことである。風でスーツの上着がまくれると、<1対1…>との文字が相手へのメッセージとなるのだ。
「ははは。イッタイイチ、やりませんか。いいでしょ、それ」
人生、1対1のスクラムのごとく、真剣勝負で生きてきた。好きなコトバを聞けば、「小学校3年生のとき、こんな標語をつくって、家の壁にずっとはっていました」という。どんなコトバを?
「“先生におこられても、くじけるな”って。ははは。ラグビーでも、仕事でも、ミスや失敗はいっぱいやります。でも、その日だけで忘れるというか、ひきずらないようにしています。バカなのかわからないけれど、僕は落ち込んだことはないです、ほんと」
今も忘れられない2009年2月10日、会社のラグビー部強化が中止された。特別待遇は消え、環境は厳しくなった。それでも、山ちゃんはラグビー部を辞めなかった。ラグビーが大好きだったからである。
ギョウザ耳を見ると、親近感をおぼえるそうだ。「まじめな話」と言って、真顔で続ける。
「営業で取引先に行くじゃないですか。そこで、相手の耳がつぶれていたら、ラグビーか柔道、レスリングの人じゃないですか。“なにをやっていました?”と聞けば、相手との距離感がぐっと近くなります」
得したことは? 破顔一笑。
「女の子の受けがいい。食事会やると、“耳さわらせて、さわらせて”とくるじゃないですか。あ、そうだ」
なんでしょうか。
「ギョウザ耳、綿棒突っ込むと気持ちいいんですよ。イタキモチイイんです」
オモシロ過ぎて笑いが止まらない。「生涯一プロップ」。最後に、おとぎ話のようなステキな思い出話を。
もう何年前だろう。ある年のオフ。山ちゃんはNECの飲み会に乱入し、トイメンの東考三さんととことん飲んだ。深夜。飲み屋街の路地裏で酔っ払ってスクラムを組んだ。
1対1で。下は汚れたアスファルト、黒い革靴だった。
「山ちゃん、1対1、いっちょ、やろか」
「おっ。いいですね」
「これだよ、これ。いいスクラムだ」
冬の満天の星空の下、ギョウザ耳がぶつかったのである。
2014年11月28日掲載
※ 『ギョウザ耳列伝』は隔週金曜日更新
【筆者プロフィール】
松瀬 学(まつせ まなぶ)
ノンフィクションライター。1960年生まれ。福岡県立修猷館高校、早稲田大学のラグビー部で活躍。早大卒業後、共同通信社に入社。運動部記者として、プロ野球、大相撲、オリンピックなどの取材を担当。96年から4年間はニューヨーク支局に勤務。2002年に同社退社後、ノンフィクションライターに転身。人物モノ、五輪モノを得意とする。『汚れた金メダル 中国ドーピング疑惑を追う』(文藝春秋)でミズノスポーツライター賞受賞。著書に『日本を想い、イラクを翔けた ラガー外交官・奥克彦の生涯 』(新潮社)、『ラグビーガールズ 楕円球に恋して』(小学館)、『負げねっすよ、釜石 鉄と魚とラグビーの街の復興ドキュメント』(光文社)、『なぜ東京五輪招致は成功したのか?』(扶桑社新書)など多数。