コラム 2013.10.24

ありがとう、おばちゃん。  田村一博(ラグビーマガジン編集長)

ありがとう、おばちゃん。
 田村一博(ラグビーマガジン編集長)

 OBたちの間をニュースが駆け巡った。
 9月いっぱいで、おばちゃんが辞めるらしい。
 噂はいろんな形で連絡網を伝わり、おばちゃんこと田中光子さんのもとには、いろんな便りが届いた。懐かしい人からの手紙。記念の品。
 そして9月30日、日体大ラグビー部合宿所の食堂には現役部員が全員集まる。花束。ジャージー。感謝の気持ちがいろんなものに込められた。


 



 18年に渡り日体大ラグビー部合宿所で食事の世話にあたってきたけれど、親子同然だった若者たちとの日々が終わった。大学の指導により、練習後のいちばんいいタイミングでの食事摂取が徹底されることになったからだ。部員たちは練習後、グラウンドの近くにできた『選手村』で食事をした後、合宿所に帰る。食事当番の部員たちとおばちゃんの共同作業はなくなった。


 



 おばちゃんは、元ワールドカップ戦士である。女子W杯の第1回大会、第2回大会に出場。背番号3や5番を背負いプレーした。
 38歳で始めたラグビー。すでに3人の息子がいた。下の2人を世田谷ラグビースクールに連れて行ったのがきっかけで誘われる。世田谷レディース、リバティーフィールズで楕円球を追い、43歳で日本代表のジャージーを着て世界に出た。


 



 素敵な旅のきっかけを作ってくれた息子たち。三男の勝利さんは10数年後にもまた、一生の宝となる出会いをプレゼントすることになる。
 日体大ラグビー部で活躍した勝利さんは卒業時、母に頼んだ。後輩たちの面倒を見てくれたら嬉しいな、と。寮長を務めていたから、合宿所生活の苦労をどうにかしてあげたかった。当番制とはいえ、部員たちだけで80人分の食事を用意するのは大変なんだよ、と母にこぼした。
「息子がお世話になったラグビー部だからね。応援に行ったりしてみんなのこともよく知っていたから、おばちゃんが手伝ってあげるわよ、みたいな感じで始まったんですよ」
 1996年から厨房のおばちゃんになった。契約書を交わしたわけではない。牧歌的な時代に始まったつながりは、その人柄のおかげで長く続いた。


 



 朝、川崎市北部市場にバイクで食材の仕入れに向かう(あまりに仕入れ量が多いためやがて中古車に変更)。合宿所に戻ると授業のない学生が腹を空かして待っている。しゃぶしゃぶ風に食べられる豚肉とうどんを出し、「ほら、お食べ」。夕方近くになると、学生の食事当番と夕飯作りが始まる。
「トマトを切って」
「とんかつに衣をつけようか」
 学生たちに手際よく指示を出し、決まった時間までに作業を終わらせる。FW出身だけど、厨房では司令塔だった。
 唐揚げ。とんかつ。野菜に味噌汁。そこには家庭の食卓があった。お腹ぺこぺこで戻ってくる部員たちが笑顔になる。家にいるようにくつろげる。厨房に入ることになって衛生管理の資格は取ったけれど、栄養のバランスや量については3人の息子を育て上げた経験がものをいった。


 



 働き始めた年に4年生だった箕内佳之が思い出す。
「先輩のおかあさんが手伝いに来てくれた感じで、安心感がありましたね。いろんなことに気を配ってくれて」
 夜中にお腹が減ったら自分でチャーハンでも作りなと、冷蔵後に予備の食材を置いてくれる気遣いが嬉しかった。
「箕内くんは明るい子でね。伊東真吾がキャプテンでした。FWにカラダの大きな子が揃っていた。マンキチくん(渡邉泰憲/故人)もそう。みんな大きなカラダを折り曲げるように厨房に入っていたわねぇ」
 数年前、マンキチが事故で亡くなった時には葬儀でお母さんと話し、ともに涙した。家族たちは、いつの時代も安心して息子をおばちゃんに託した。


 



 仕事は食事の賄いだけでなく、まさに母だった。挨拶のできない部員に「なに黙ってんのよ」。合宿所内が散らかっていると「ちゃんと、片付けなさいっ」。顔色が悪いと気づけば声をかけ、駅まで送ってほしいと頼まれれば車を出す。
「いろんな子がいた。ただ、当時のことを思い浮かべたら、その後の生活は『やっぱりね』ということは多い。例えば、いまパナソニックの監督をやっている中嶋(則文)くん。決して目立つ子じゃなかったけど、落ち着いて、いつも何かを考えているタイプだった」


 



 気配りのできる4年生が多いときのチームは、よくまとまっている。最近では、慶大に勝った2008年度のチームがそうだった。
「62メートルのPGを決めた大澤(雅之)なんかがいた年は、『ありがとう』とか、きちんと声を出せる子がたくさんいたの。自分が食事を用意するようになってから、勝てないときには『私の作る物が悪いのかしら…』なんて落ち込むこともあったけど、弱くなったのにはいろんな理由があると思うのよねえ」
 不振が続く近年に表情を曇らせる。食事がよければ勝てるのなら、一流シェフと栄養士を招聘すれば勝てるだろう。でも、違う。チームは生き物だからだ。


 



 強かった頃の日体大と、いまの子どもたち。昔の学生たちに比べ、最近は食が細くなった。「幼い頃からたくさん食べる習慣をつけていないからなのよ」と言うおばちゃんは、以前より整理整頓のいきとどかない合宿所内や、きちんと挨拶できない若者たちを嘆きながらも、母の視線で学生を見つめる。
「みんな、言ったことはきく。素直なの。だから、恐い先輩がいればキチンとするし、大人がちゃんと気を配ってあげれば変われる。最近弱くなったのは、そういうところもあると思う。そこから目をそむけちゃいけない」


 



 厨房で働いている頃は、決して出しゃばったまねはしてはいけないと、自分のやるべきこと、できることに集中してきた。大黒柱は監督なんだから、と。だけど、部を離れるにあたって、思いは部の大人に伝えた。だってこれからは、近所のおばちゃんになるのだから。
 ちょっと距離をおいてサポートする。ときどき合宿所に足を運び、小言も。
「久しぶりに顔を出したらスリッパが散らかってた。だから、そこにいる子を『ちゃんとみんなに言いなさいよ』って怒ったら、『どうせ変わらないから』だって。いつか変わると思って言い続けな、って言ってあげました(笑)」


 



 遠方での試合でない限り、毎試合に応援に足を運んできた。部員席の横に座る。大声を出す。いちばん元気だ。これからも変わらない。
「こないだの0−147だった帝京戦。みんなシューンとしてるから、私は変わらず声を出して応援したの。ただ、試合に出ている選手も途中で諦めるのがよくない。必死に最後まで追いかける人間がひとり出れば、どんどん続くんだから。絶対に諦めちゃダメ」


 



 勝った試合を新聞が報じれば、切り取って合宿所内に飾ってきた。そうやって、部の歴史を伝え、みんなにプライドを持たせようとしてきたおばちゃんは、「毎年、1年生が不安と希望の浮かんだ表情で入学してくる。あの姿、忘れられないのよね。あの希望を絶対に失わせない部にしないといけない」
 強い日体大ラグビー部を見たい。
 そして、おばちゃんは言った。
「最近は足が痛いんだけど、動ける限りはずーっと応援に行くからね」


 


 


 


【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。


 


 


(写真:「幸運なことに(笑)、今度は野球部やサッカー部に食事を出す仕事に就けました」と田中光子さん。66歳。)

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