コラム 2013.07.22

Yukio Motoki 元木由記雄(日本)

Yukio Motoki 元木由記雄(日本)

 背番号12の英雄。小野澤宏時に記録を更新されるまで、日本代表最多キャップホルダーだった。

 「ミスターラグビー」、「鉄人」、「勇者」、「日本ラグビーが世界に誇る財産」……。多くの人々が元木由記雄に尊敬の念を抱き、愛した。
 相手選手の骨が軋むような強烈なタックルに、スタジアムがどよめいた。ブレイクダウンの激しいファイト、間合いを詰めての緻密なパス、全力で止めにくる者をなぎ倒す力強い走り、そしてキャプテンシー。偉大なるレジェンドを語り尽くすことはできないが、その歴史を少しだけ振り返る。

 1971年8月27日、大阪府東大阪市に生まれた。市立英田中学校でラグビーを始め、1年生の頃はNO8だったが、「ジャパンになりたかったらCTBにいけ」という恩師・深田一明先生からのアドバイスを受けて、2年生からCTBに転向する。大阪工大高(現・常翔学園)時代、淀川の河川敷を自身の背丈分くらいスコップでせっせと掘り、また埋めるという鍛錬を毎日続けた…。そんな逸話がある。怪童はどんどんたくましくなった。

 そして高校2年のとき、第68回全国高校大会で茗溪学園(茨城)と両校優勝に輝く。主将として臨んだ3年時は花園出場を逃したが、負けた悔しさもまた、彼が成長する原動力となる。2年連続で高校ジャパン入り。
 大学は名門・明治大に進み、1年生からレギュラーとして活躍した。4年時には主将を務め、自身3度目の全国大学選手権優勝を遂げた。

 1994年、V7最後のシーズンに神戸製鋼入社。連覇が途切れたあと、1999年度と2000年度に全国社会人大会と日本選手権の栄冠を掲げる。
 トップリーグ元年(2003−2004)、神戸製鋼コベルコスティーラーズで唯一全11試合にフル出場し、チームを初代王者に導き、自らもMVPに輝いた。同リーグでベスト15に選ばれること2回。

 国際舞台に登場するのも早かった。明治大2年生になったばかりの1991年4月、北米遠征で日本代表入り。同月27日にミネアポリスで行われたアメリカ代表戦で、CTB平尾誠二に替わって後半から出場、初キャップを獲得した。当時19歳8カ月だった。

 1991年ワールドカップでスコッド入りし、試合出場はなかったものの、世界の大舞台に刺激を受けた。その後3大会(1995、1999、2003年ワールドカップ)にも参加し、9試合に出場している。

 1996年もハイライトは多い。世界のトッププレーヤーで編成されるバーバリアンズに呼ばれ、8月17日にマレーフィールドでスコットランドと対戦した。しかし、それ以上に誇らしく重責だったのは、日本代表の主将就任かもしれない。同年2月、山本厳監督のもと、パン・パシフィック選手権に出場する日本代表のキャプテンに選ばれ、2年後にアンドリュー・マコーミックと主将交代するまで、テストマッチ13試合でジャパンを牽引した。
 引退後、「現役生活で最も辛かったことは、ジャパンのキャプテン交代だった」と振り返っているが、彼は一時深く落ち込んだものの、全力でアンガス主将をサポートし続けた。

 そして、2005年6月19日に東京・秩父宮ラグビー場で行われたアイルランド代表戦。これが、元木由記雄にとって、日本代表としての最後の試合となる。33歳だった。2000年度はアキレス腱痛で代表活動を全休したため、胸に桜を抱くこと約14年間、テストマッチ79試合で世界と戦った。

 何が自分を最多キャップ保持者に押し上げたのかと訊かれ、彼はこう答えている。
「もともと人一倍負けず嫌いで、相手に負けることが許せない。まず眼の前の相手に勝つという気持ちが強い。あと、チームのみんなを裏切れない。責任あるプレーをしないと14人に迷惑をかける。将来こうなりたいとかよりも、眼の前のことに全神経を集中させてやってきた結果がこうなった、という感じですね。僕の根本にあるのは基本プレーです。しっかり当たって、しっかりタックルする。全部全力でやってきた」(『ラグビーマガジン』2010年5月号より)

 勇敢なハードファイターゆえ、傷は絶えなかったことだろう。2000年度、左足首のアキレス腱炎と部分断裂で約半年間プレーできなかった。2001年度の全国社会人大会準決勝、トヨタ戦。キックオフでCTBの位置からタックルにいこうと追いかけていったら、味方選手の顔と自分の顔がぶつかって頬骨を6カ所折った。しかし、3週間後には試合に出場する。2007年12月11日、練習中に右足アキレス腱断裂。手術を経て、10カ月後の近鉄ライナーズ戦で公式戦復帰を果たした。鉄人と形容されるほど強い男だが、心は繊細で、パニック障害に苦しんだこともある。それでも、周りの人に支えられながら、元木由記雄は復活した。

 だが、ブーツを脱ぐときが来た。2010年3月5日、38歳のときに現役引退を発表。「今の自分より強い自分になれるか、というと、それは無理だった」。同年1月23日のコカ・コーラウエスト戦(ワイルドカード)が最後の公式戦となった。

 引退してすぐ指導者としての道を歩み始め、U20日本代表ヘッドコーチを経験した。日本ラグビー協会U15−20スキルアドバイザーや神戸製鋼コベルコスティーラーズアドバイザーを務め、2013年春からは京都産業大ラグビー部のBKコーチとしても奮闘している。
 いつか、ジャパンの監督になることを期待する人は多い。

 2019年ラグビーワールドカップのアンバサダーでもある。大会を成功させるべく、全国の各種イベントや普及の現場で精力的にプロモーション活動を実施中だ。
 元木由記雄。2019年に日本で開催されるラグビー界最高峰の祭典で、偉大なる先輩たちとともに、ジャパンのレジェンドのひとりとして世界に紹介すべき男である。

 

(写真:BBM)

 

・現役時代のポジション: CTB
・生年月日: 1971年8月27日(41歳)
・出身地: 大阪府東大阪市
・身長: 177cm
・体重: 88kg
・国代表歴: 日本代表(79キャップ/9トライ)
・選手経歴: 東大阪市立英田中 → 大阪工大高(現・常翔学園) → 明治大 → 神戸製鋼

 

 

※ 記事は2013年7月22日に作成

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