コラム 2013.05.31

ウエールズのこと。  田村一博(ラグビーマガジン編集長)

ウエールズのこと。
 田村一博(ラグビーマガジン編集長)

 もの静かな印象のあった小さな巨人が終始にこやかだった。こちらのペンとノートを手にとって、聞き取れなかった言葉のスペルを記す。6月にウエールズ代表が来日する。予備知識として彼の地の風土などを教えてほしいと、シェーン・ウィリアムズをインタビューした。

 昨年から相模原に住む。ウエールズ代表とブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズで得たキャップは91。170センチ、80キロの体躯ながら、テストマッチでトライラインを超えること60回(世界歴代3位)。『ポケット・ロケット』と世界に名をとどろかせたレッドドラゴンのWTBは、三菱重工相模原ダイナボアーズでの2シーズン目を楽しんでいる。

 1977年2月26日、1970年代に世界を席巻したウエールズ代表のレジェンド、ガレス・エドワーズの出身地から5キロほどの場所で生まれた。モリストンという田舎町で育った少年は、幼い頃の憧れをジェラルド・デーヴィスと答えた。ガレス・エドワーズらとウエールズの黄金時代を築いた人だ。
 自身の生まれる前が最盛期だったWTBをヒーローに挙げたことが不思議だった。その理由を尋ねると、「ウエールズの各家庭には、何人ものラグビー博士がいるんだよ」と笑った。

 父も祖父も曾祖父も、そして妹も弟もラグビーをやっていたというシェーンの周辺。
「そんな中で育つから、普通に暮らしていたら、だいたい10歳ぐらいには(ラグビー)オタクになれる。父や祖父はいつもいつも、自分に昔のウエールズのビデオを見せてくれた。だからジェラルド・デーヴィスみたいになりたくなった」
 画面の中のヒーローたちは、のちの自分に大きな影響を与えた。
「スピード、テクニック。みんな大きくないのに、ディフェンスを負かしてトライをとっていたんだ。彼らの映像を見て、自分も一人で公園に行って練習をしたよ」
 ウィリアムズ家が特別なのではない。シェーンが「各家庭に」と言ったように、それが日常だから、ウエールズはラグビーのハートランドと呼ばれる。
 6月8日と6月15日に日本代表と戦う同代表は、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズに選ばれている選手たちが抜けて若手が多いとはいえ、真紅のジャージーを着る重みを知る者たちばかりだ。ジャパンの選手たちは、何があってもハートで負けてはならない。

 ラグビーマンなら、誰もが胸を熱くする相手であるウエールズ。過去、彼らにもっとも迫った男たちが、1983年のジャパンだ。同年秋、ウエールズ遠征をおこなった。ツアーの最終戦、聖地アームズパークで戦った桜のジャージーは24-29で敗れはしたが勇敢だった。詰めかけたファンに賞賛された。

 当時のチームを率いた日比野弘監督は、試合後に開かれたアフターマッチファンクションでの相手キャプテンのスピーチを、著書にこう書いている。
「勝ったことを神に感謝している。ウエールズはラグビーにおいて世界一との自負を持っていた。しかし、ひとひねりにやっつけてやろうと考えた日本に、我々はこっぴどく痛めつけられた。世界一を維持するために日本に学び、一から練習しなおすつもりでいる」
 NO8エディー・バトラー主将の人柄もにじみ出る。そして、この試合が何度も何度も語り継がれる理由も伝わる。

 このツアーの話が出るたびに思い出す話がある。こちらも、日比野監督から教えていただいた。石塚武生さんのことだ。
 タックルマンと呼ばれ、愛された石塚さんは2009年8月6日に亡くなった(享年57)。積み上げた日本代表キャップは、ウエールズ遠征直前に日本で戦ったオックスフォード大/ケンブリッジ大連合との試合で28に達し、それが最後になった。

 ジャパンで何度もキャプテンも務めた石塚さんは、桜のジャージーを深く愛していた。ウエールズ遠征に向けて強化を進める過程でも、石塚さんは主将としてチームの先頭に立っていた。ただ、前年のNZツアーやウエールズ出発直前のオ・ケ大連合戦で強化を重ねるも、思うように前に進めない。そこで決断したのが指揮官だった。主将に指名したのは日比野監督。早大時代に監督−主将として戦った恩師は、代表を外す決断も自分で決めた。

 ウエールズ遠征のメンバーを決める際、監督はキャプテンを呼び、「石塚、(30歳を過ぎた)お前がまだ試合に出ているようでは日本は勝てない」と告げる。そして、ウエールズにはプレーイングコーチとして帯同してほしいと伝えた。
 石塚さんは、子どものように泣きじゃくったそうだ。そのときの言葉が忘れられない。
「もっと戦いたい」
 日比野監督は石塚さんが亡くなったとき、愛情を込めて言っていた。
「ラグビーの魅力は、いつまでも少年の心を持たせてくれるというけど、そのままの生き方だった。いい意味で、最後の最後まで子どものままだったと思います」
 ウエールズ遠征を裏方として支えた石塚さんは、コーチとして教えるというより、選手時代と変わりのない集中力で先頭に立った。気迫を持って練習に挑み、チームを盛り上げ続けた。「彼らしいスタイルで立派にやり遂げてくれた」とは、恩師の回想だ。

 石塚さん。あなたが戦いたかったレッドドラゴンが、もうすぐ日本にやって来ます。

 

 

 

【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。

 

 

(写真:日本でのラグビーライフを楽しんでいる元ウエールズ代表シェーン・ウィリアムズ(右)/撮影:松本かおり)

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