ラグビーマンとしての人生 田村一博(ラグビーマガジン編集長)
ソニー=ビル・ウィリアムズ(SBW)がトップリーグでプレーすると聞いて、娘が言った。
「ああ、あの試合中に着替えた人でしょ!」
2011年の9月、10月にNZで開催されたワールドカップ(以下、W杯)。オープニングゲームのオールブラックス×トンガの途中、着ていたジャージーが破れたSBWは、ピッチの上で上半身裸になり、新しいものと取り替えた。
高額なサラリー、巧みなオフロードパス、そして、ボクシングのリングにも立つ。NZでもっともセクシーとされ、話題の中心となってきた男がやって来る。昨シーズン、マア・ノヌーがリコーでプレーし、多くの子どもたちが秩父宮やあちこちのトップリーグ開催会場に足を運んだ現象がまた起こるといいな。
NZでのW杯のことを思い出すと、あの祭典からもうすぐ1年が経つのかと、時間の流れの速さを感じる。『400万人のスタジアム』と自国を表現した昨年大会時のNZ。国全体が競技場のような空気で覆われ、どこにいてもラグビーを感じられることこそ一番のホスピタリティとアピールした。そして実際、ラグビーが宗教と呼ばれる島国は、そこらの街角まで楕円熱にみちていた。
オールブラックスをサポートする絵やメッセージが壁に書かれた家。
漆黒のジャージーを着たスーパーのレジのおばさんと、各国のジャージーがディスプレイされた売り場。
電車でスタジアムに向かう習慣のない地元のファンたちは、試合当日の満員電車に戸惑いながらも、短い車中を存分に楽しんでいた。
そして、ラグビーが人をつないでいることをあらためて感じたのは、ラグビーマガジンでも紹介した、福岡の画家・岡部文明さんとラグビーマンたちの交流に接したときだ。
福岡・早良区に暮らす画家の岡部文明さんは福岡工業高校2年生のとき(1965年)、大怪我を負った。ラグビー部に所属、岐阜国体の選手に選ばれ当地を訪れたとき、スクラムの練習時に頸椎を折り、四肢に障害を負った。ラグビーをやっていたばかりに…と思った事故直後。下を向きかけた少年に、前を向くきっかけを与えてくれたのもまた、ラグビーだった。
大分・別府の病院で療養、リハビリに取り組んでいた1967年3月。来日していたNZU(NZ大学クラブ選抜)の選手たちが病室を訪ねてくれた。マオリの木彫りなどを手に、ミック・ウィリメント、リック・アッシャー、マレー・ブラウン、スティーブ・リーニーの4人はとても優しかった。当日、チームはオフで観光に出かける選手たちがほとんどだった。だけど4人は、近くにラグビーで傷ついた少年がいるのを聞き、自ら手を挙げたのだという。手足の動きは不自由になったけれど、ラグビーがつないだ出会いに触れ、「自分はこの先も、ラグビーマンとして生きていいのだと思った」。トンネルの先が見えた。
その後、人生の目的を探し、画家として生きることを決意。ピエロを題材に、世の中、人の心の中を映し出す作品を描き続けた岡部さん。自分の姿をいつか4人に見てほしいと思い続けてきたが、その機会に最適だと考えたのが昨年のW杯だった。その思いを何年も前から、夢の話として口にしていたら、また、ラグビーが人をつなぐ。駐日NZ大使のケネディーさん、日本ラグビー協会、そしてNZ大学ラグビー評議会が中心となって動き出すと、その周囲も協力を惜しまなかった。
そして実現したのが、ウェリントン郊外のポリルア、パタカ美術館でW杯期間中に開かれた『ピエロを描く画家 岡部文明展 ― ピエロから愛と平和のメッセージ ―/CLOWN PAINTINGS – LOVE AND PEACE by Japanese Artist OKABE』だ。個展の会期中にはNZラグビー協会で、岡部さんと当時お見舞いに訪れた4人が再会する時間も設けられた。
「あのとき下を向いていた少年が私です、と見てほしかった」
ウィリメントさん、アッシャーさんは亡くなっていたため、そのご家族が足を運び、ブラウンさん、リーニーさんと、長い空白期間など忘れて話し込んだ。
再会時の光景は1年前の誌面でも触れたが、その前後にもいろんなことがあった。
亡くなったウィリメントさんのお墓がウェリントン近郊にあると聞いた岡部さんは、立派になった姿をなんとか墓前に報告したいと車いす用のタクシーをチャーターし、現地に向かった。曖昧な情報しかなく、場所の特定に苦労。広大な墓地の敷地に途方に暮れたのだが、そこでドライバーの青年が立ち上がった。
自分の仕事か否かの境界線をハッキリさせる海外である。その青年も最初は、自分の仕事は運転…とばかりに墓地探しには無関心だったのだが、探しているのが元オールブラックスのものだと知ると、「あなたもラグビーをやっていたのか」と変わった。岡部さんがこれまでのことを語ると感激した様子で、「次の予約が入っているんだ」と急いでいたことも忘れ、ともに探す。見つけ出したときには、友の笑顔になっていた。
男なら誰もが一度は楕円球を持って走ったことのある国である。それが強国の土台を支えている一方で、頸椎を痛めて苦しい思いをしている人たちが少なくないのも現実だ。
だから岡部さんはNZ滞在時、現地の知人から頼まれた。そういった少年たちのためにも、自身が持ち続けてきたスピリットを語り、映像に記録させてほしいと。下を向きかけた人たちのもとへ、それを届ける活動に力を注ぐラグビーマンたち。岡部さんは、楕円球の国の人々の熱を感じるとともに、日本でも同じような動きを起こせたらと考える。
王国の人たちの胸に、オールブラックス優勝とは違う、W杯の思い出を刻み込んだ岡部さんには、実は今年、思い出の方たちとの再会の場がふたたび待っている。
大怪我を負った日から47年が経ち、今年の国体は、ふたたび岐阜での開催。それに合わせて9月、同県各務原市で個展を開くのだ。当時の少年が60歳を超えているのだから、怪我直後に励ましてくれた方々も随分年齢を重ねている。しかし、お互いを思う気持ちをどこかに持ち続けたから、この国でも、NZで出会ったあたたかさと同じ空気が生まれそうだ。
「(岐阜は)私が生まれ変わった大切な場所。お世話になった人たちに恩返ししたい」
ラグビーマンとしての人生は永遠。岡部さんは、そんな生き方を誰より実践している。
(文・田村一博)
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。
(写真:故ミック・ウィリメントさんの墓地)