国内 2021.07.02

ヤマハ発動機・粟田祥平が歩んだ25年。波乱万丈なラグビー人生。

[ 明石尚之 ]
ヤマハ発動機・粟田祥平が歩んだ25年。波乱万丈なラグビー人生。
7月からは心機一転、ヤマハ発動機を退職し地元大阪に戻って、妻の実家が営む製造業に携わる(撮影:小山真司)

 誰も想像できないラグビー人生だった。
 「ヤマハらしさ」を象徴するひとり、粟田祥平がジャージーを脱いだ。

 トップリーグ2021はリーグ戦全試合に出場。開幕から4戦は6番を背負う。キャリアの絶頂期を過ごしているように見えたが、実は腰痛に悩まされていた。
 新チームが始動してまもなく、椎間板ヘルニアを発症。リーグの延期が幸いし開幕直前に復帰するも、しびれや痛みが残った。
「相手とぶつかった時のシンプルな強さがなくて、100%力を発揮できないもどかしさがありました。今年で30歳になることもあり、ここで区切りをつけようかなと」

 来季へのリクルートも考えて決断するなら早めにと思っていたけれど、まだやれるという気持ちも同居していたから最後まで悩んだ。堀川隆延GM兼監督に伝えたのはリーグ戦が終わってからだ。堀川監督も「来年もいて欲しい」と一度は止めたけど、最後は決断を尊重してくれた。

「自分で決断したから後悔はありません。ヤマハに来て、FWに挑戦させてもらえて本当に良かった」

 189センチ、102キロ。体格に恵まれ、ヤマハにはFBとして入団した。力強いボールキャリーが持ち味で五郎丸歩の後継ぎと期待されるも、キャリアはFLで終えた。
 2017年夏の北海道合宿で、清宮克幸監督(当時)の打診を受けFLに転向。なかなか出場を重ねられない日々過ごしていた4年目のことだった。
「思うように活躍できず、試合に出るイメージができなかった時に、ちょうど清宮さんから話がありました。BKとしてはクビなんだなと。FWもたぶん厳しいけど、チャレンジしないで終わるのも後悔しそうだから、最後やれるだけやろうと思いました」

 もがくことに決めたけど、これまでずっとほぼFBで生きてきたからFWの知識はゼロ。FWを見てきた印象はほかのBKの選手と変わらず、「絶対あんなきついことしたくない」と思っていた。「痛いし、汗だらけやし、最初はほんまに嫌でした(笑)」。

 日本一のセットプレーを掲げるヤマハのこだわりも、はじめは当然分からなかった。そんな中で翌年の開幕戦でまさかの先発を任される。とにかく必死に走り続けた。
 年を重ねるごとに、FWの魅力にも気づいた。
「スクラムで膝の高さを1、2センチ下げたり、0.5歩だけ詰めたりと、慎さんの言うことが少しずつできてきて楽しくなった。誰かがサボったら成り立たないし、誰かがしんどそうだったら助けたりと、FW8人の一体感は今まで感じたことないものでした」

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