【ラグリパWest】父の歩みをトレースする。[廣島家]
廣島茂の命日は11月6日である。
1978年(昭和53)、48歳で没した。
廣島は旧制の神戸一中でラグビーをする。49回生。学制改革で神戸高校になったのが1948年。その直前の卒業である。
旧制度では、中学の修業期間は5年。その上に3年の旧制高校があり、大学に至った。
1945年8月15日、十五年戦争が終わる。旧制中学では柔道や剣道などの武道を禁じられる。再軍備禁止の一環だった。
血気盛んな若者でラグビーに流れた者は少なくなかった。廣島もそれにならう。この競技は、肉体的接触があるものの、戦勝国のひとつ、英国発祥のため、例外的に残された。
「オヤジは柔道あがりやった。初段は持ってたんとちゃうかな。ポツダム初段、って言うてたから」
廣島の次男である治は話す。
ポツダムはドイツの都市名。戦時中、ここで日本への最終の降伏要求がなされた。この時、軍人の階級がひとつ上がる。敗戦を見越し、国は手当や恩給などを多くもらえるようにした。昇段もそれにならっている。
神戸一中のラグビー部創部は1926年(昭和元)。県内では最古である。今年、95年目を迎えた。100回を迎える全国大会には、9回の出場がある。そのOB会は「青陵ラガークラブ」と名づけられている。
学校創立は創部の30年前。校舎は六甲山系のすそにあり、兵庫県トップの公立校として南に広がる港町を見渡している。
廣島は柔道の同級生だった小松らとラグビーに転部する。
「はいりーなー。柔道とラグビーは親せきみたいなもんや」
1級上の先輩の言葉に反応した。
小松は後年、『日本沈没』、『首都消失』などSFを中心とした大作家になる。
小松左京である。
その思い出を『神戸一中・神戸高校ラグビー部 五十年史』につづる。
<柔道着をつけて、はだしで練習に加わった。セービングの練習では、つい受け身のくせが出て、地面をたたいて立ち上がる>
敗戦後、物資は極端に欠乏していた。
競技を変えた自分たちを「残党」と呼ぶ。そして、15人で戦うスポーツのとりこになる。
<こんな新参者たちが、たちまちにして先輩、同級の間に抵抗なく溶け込み、まるで昔からラグビー部に入っていたようになってしまったのだから、あのころのラグビー部はよほど居心地のいい雰囲気だったに違いない>
小松は自著の『やぶれかぶれ青春記・大阪万博奮闘記』(新潮文庫)に、その旧制中学時代を暗くつづっているが、ラグビーは別物だったらしい。
廣島と小松は一中から旧制高校を経て、京大に進む。
廣島は同和火災海上(現・あいおいニッセイ同和損害保険)に入り、出世コースの総務部長をつとめる。社内で起こるあらゆるできごとを処理した。その分、ストレスはたまる。深酒は肝硬変を呼んだ。
「オヤジは、5年しか生きられへん、と医者に言われた。でもそれを10年に延ばした」
ラグビーで培った敢闘精神を見せる。
廣島の没後、小松は、神戸高校の『同窓会誌 第20号』に、自分を含め6人の同期との連名で追悼文を書いた。題は『廣島よ、安らかに眠れ』。その中で上山久夫の言葉を引いて、故人を描写している。
<本当に感心したのは、人の悪口を絶対言わなかったことと、めったに怒らなかったことだ。俺には到底出来んことや>
その小松も2011年、80歳で亡くなった。
父が世を去った時、治は13歳だった。
その年の春、中学受験に失敗する。落ち込む治を嵐山に連れ出した。桜の名所である。
「オヤジなりの優しさやったんやろね。京都駅からタクシーに乗って、嵐山まで行った。おれはずーっと外を見とったわ」
キャンディーズの引退曲となる『微笑がえし』がはやっていた記憶がある。
治は神戸高校入学後にラグビーを始める。
小3の時にテレビで見た12回目の日本選手権。その肉弾戦に感動したこともある。
「こんなスポーツがあんねんや」
近鉄が早稲田大を33−13で破った一戦。日本代表キャップ16を得たWTB坂田好弘の引退試合のひとつでもあった。坂田は前の関西協会会長である。
そのチャンネルは、父の好みに合わされていた。
治は6歳上だった亡き兄・昇とともに父の直系の後輩になる。
「オヤジも兄貴もなんにも言わへんし、誰からもなんにも言われへんかった。けど、今思うとオヤジをトレース(後を追う)していたんやろね」
治は同志社大でクラブラグビーをした後、阪神電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。ラグビーでは、兵庫県協会の書記長をつとめ、20年以上、関西の大学クラブの世話をしている。いい加減な学生も時折いるが、怒らず、粘り強く対応する。
同じ血は流れている。
今年もまた、父の命日が巡って来る。
廣島家の中で、今でもラグビーはつながっている。