コラム 2020.04.01

【ラグリパWest】命の尊さを知り、タグラグビーを教える。 南條賢太

[ 鎮 勝也 ]
【キーワード】,
【ラグリパWest】命の尊さを知り、タグラグビーを教える。 南條賢太
生まれ育った東大阪で小学生にタグラグビーを教える南條賢太さん。写真におさまる近鉄若江岩田駅は実家の最寄り駅でもある。

 その昔、神戸製鋼にこんな言葉があった。
「ナンジョー以下みな若手」

 その南條賢太も11月で48歳になる。
 今は小学生にタグラグビーを教えている。1〜6時限の授業に組み込まれている。
 活動するのは生まれ育った東大阪だ。

 タグと呼ばれる腰ひもを取ればタックルが成立。肉体の接触がない分、体の大きさや性別に関係なくプレーできる。
「ライフワークにさせてもらえたら、と考えています」
 PRだった現役時代と変わらない日焼けした丸顔。今、その表情は柔らかい。子供たちからは「ナンちゃん」と声がかかる。

 2010年、南條は市でワールドカップを誘致することを軸にしたアドバイザーになった。神戸製鋼から近鉄に移籍。花園ラグビー場をホームにするチームで現役引退した後だった。市は「ラグビーのまち」の周知徹底を目指していた。

 その手段のひとつがタグラグビーだった。
「市内には51の小学校があるのですが、そのすべてを回りました」
 夏が来れば丸10年。市の望み通り、ワールドカップはプールマッチ4試合が行われた。

 以前、助手だった宿利誠と阿多翔一郎は市の小学校教員となった。宿利は加納、阿多は桜橋。南條の影響で教職の道に進んだ。

 その報酬は低い。この国の平均年収にはるかに及ばない。日々の生活は他チームとのかけもちでしのぐ。今はアナン学園高のラグビー部の監督でもある。それでも、タグラグビーの指導をやめることはない。

「嫁に言われました。『パパは小学生を教えている時は目がまんまるになっている。だからこの仕事は続けて下さい』って」
 南條の笑顔を見て発せられた言葉は、同時に嫁・さくらの遺言になる。

 旅立ったのは3年前の11月12日。4年近いがんとの闘いで力尽きる。小学生と交流を続ける意志は鉄石になった。

 結婚したのは南條が神戸製鋼時代の2004年。さくらの旧姓は田中。エレクトーン奏者として、朝日放送の情報報道番組『おはよう朝日です』に出演。CMの前後に時間を伝えるなど関西の朝の顔として活躍していた。

 残してくれた子は2人。長男の幹英(かんた)は大阪桐蔭高の新3年になる。母の血を引き、音楽の道に進んだ。ラグビーや野球と並ぶ全国屈指の吹奏楽部でトランペットを担当。長女のひなたは小4に上がる。

 悲嘆にくれる別れは他に2度あった。
 幹英とひなたの間に男の子を授かる予定だった。さくらに陣痛が始まり、病院に運んだ。その時には胎内で心臓が止まっていた。
「生まれてくるのは当たり前じゃない。奇跡だということを知りました」

 父・弘昌は大学3年の秋、命を絶った。父は玉川中から始めたラグビーを大阪工大高(現常翔学園)、明大へとつなげてくれた。

 訃報が入った夜、紫紺の仲間は寄り添ってくれる。主将だった元木由記雄は10時30分の門限を破らせる。
「藤に車で送らせるから」
 藤高之の運転で八幡山から新宿に向かう。大阪へ向かう夜行バスに飛び乗る。2人は高校から1年上の先輩だった。

 同期の渡辺大吾は新宿まで同乗してくれ、おにぎりとお茶を渡しながら言った。
「家に着くまで、できるだけ泣いとけ。おまえは長男やから、お葬式では泣かれへんぞ」
 元木は日本代表キャップ79を得るCTB。藤はHO、渡辺はFBとして大学屈指だった。その夜のことは鮮明に覚えている。


PICK UP