【ラグリパWest】命の尊さを知り、タグラグビーを教える。 南條賢太
初七日を終え、南條は京都でチームに合流する。同大との定期戦があった。
「新幹線のホームで待っていたら、元木さんを先頭にみんなが歩いてきました。元木さんは僕の着替えが入ったバッグを渡すと、そのまま肩を抱いてくれました」
その年、第30回大学選手権(1993年度)では決勝で法大を41−12で破る。明大は早大と並び最多10回目の優勝を果たす。翌年、南條が主将になる。大学選手権は準優勝。大東大に17−22と及ばなかった。
神戸製鋼入社は1995年。6000人以上が亡くなった1月17日の阪神大震災から2か月と少ししか経っていない。
ラグビー部の同期はひとりだった。
「前の年に元木さんや藤さんらそうそうたる顔ぶれが入って、僕らの代は敬遠しました」
2人のほかに、PR中道紀和、NO8伊藤剛臣、CTB 吉田明、WTB増保輝則。全員が桜のジャージーに袖を通した。
翌年の入部はLO小泉和也とSH苑田右二。その下はFB八ッ橋修身。後輩が少なかったため、南條は長く下働きをする。図抜けた代との比較も含め、「みな若手」のゆえんである。
神戸製鋼には14年在籍した。
2003年のトップリーグ開幕年からは、賢太ではなく、父がつけたかった「健太」を供養も込め、登録名として使う。
その年、神戸製鋼は初代王者に輝いた。
プロとして入った近鉄では膝を痛め、1年で退団する。選手兼任コーチの打診は固辞。タグラグビーに舵を切った。
現在、新型コロナウイルス感染拡大が止まらない。東大阪の小学校も例外ではない。春休み前には休校措置が取られた。
「僕は学校が再開されたらタグラグビーができるように準備をしておくだけです」
南條には夢がある。
「おらが町のチームが作れたらいいですね」
指導の中で、極貧が存在することを知る。
「スポーツをやるお金がない子たちがいる。そういう子たちが働きながら戻れる場所ができたらなあ、と思っています」
父との別れで大切なことを教わった。
「楽しく生きる」
好きなラグビーで子供たちの成長に寄与する。いずれその経験をチーム組織に生かしたい。生まれ育った街への恩返しを下地に、明大の部訓「前へ」の精神で生きて行く。