コラム 2012.09.27

1964年のミステリー  ラグビールールの大改正の謎 2 (完)  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

1964年のミステリー
 ラグビールールの大改正の謎 2 (完)
 小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

 1964年のラグビー競技規則改正によって、オフサイドラインはスクラム(ラックを含む)の最後尾のプレーヤーの足の線へと後退し、従来のボールの線まで出られるのはスクラムハーフ一人となった。同時に、ラインアウトのオフサイドラインも10ヤード(現在10メートル)後方へ下げられた。



『近代ラグビー百年』(ベースボール・マガジン社刊)のなかで、元毎日新聞のラグビー記者だった池口康雄氏は、「つぶし合い、キックの応酬によってオープン攻撃の道がとざされラグビーのダイゴミが薄れてきた戦後、攻撃側に余裕をもたせるために多くのルール改正が行われている。……その最も重大な改正はラインアウト、スクラム(ラックを含む)でのオフサイドラインの後退である。……これによって昭和四十年度以降、FWのラインアウトプレー、バックスの攻撃陣形にサインプレーが数多く生まれて脚光を浴びた。大西鐵之祐らがあみ出した浅いラインからの「カンペイ」つまり一人とばしFBのライン参加やショートラインアウトなどがそれで、FBが攻撃に参加するケースが大幅に増えた……」と記している。



 ラグビーマガジンの古い増刊号『日本ラグビーキャップ物語』のなかでも、当時の明治大の北島忠治監督は、ルール改正前と後では、ラグビーはまったく別のものになったとして、歴代15人の選考を、ルール改正前と改正後に分けて選んでいる程である。



 この時のオフサイドラインの改正を、ラグビー史における重大事ととらえるのは、日本のラグビー界では常識であり、日本人がラグビー年表を作れば、必ず記載する項目だといって良い。にもかかわらず、不思議なことに、筆者がこれまでに集めた海外の諸々のラグビー書籍のいずれにも、’64年のオフサイドラインの後退に関して、重要事項として年表で触れたり解説したりした記述が見当たらないのである。



 先日、この国内外のギャップについて早稲田の日比野弘さんに意見を求めたところ、「彼ら(西洋のプレーヤー)にとっては、深刻な問題ではなかったのではないか」というお話であった



 つまり、当時の日本の大学生は戦後の食糧難の影響を受けて、体格的に西洋人と差が大きかったこともあり、ルール改正を好機ととらえて、ラインアウトの両軍20ヤードの間隔を利用し、持ちまえの俊敏性を駆使したアタックを工夫し、ディフェンスでも相手がトップスピードに乗る前に、間合いを詰めたタックルをやったわけである。



 1968年にウエリントンでジュニア・オールブラックスを倒したジャパンのアタックに驚き、どよめきの声をあげるニュージーランドの観客の姿(映像があるのは最終戦のニュージーランド学生代表戦)こそは、ルール改正を利する工夫を凝らしてきた日本と、特別対応しなかったニュージーランドとの違いに対する驚きだといっても良いだろう。



 スクラムのオフサイドラインは2009年からさらに5メートル後退する規則が採用された。われわれは、いまも世界一の工夫をしているだろうか。受け継ぐべきは先人たちの努力の姿ではないか。



(文・小林深緑郎)


 


 


【筆者プロフィール】


小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)


ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。


 


 


<写真:現地ファンに高く評価された、1968年の日本代表NZツアー時の試合プログラム。NZ学生代表戦のもの>


(撮影:BBM)

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