【大野均からのメッセージ/その2】ジャパンの物差し。
経験とは、得体が知れない。
スピードやパワーやスキルなら、栄枯盛衰は一目でわかる。
経験は厄介だ。何しろ、目に見えないのだから。
それが実は、身にまとう風格、修羅場での落ち着きの根源だったりする。
大野均にとって2度目のワールドカップ(W杯)、2011年ニュージーランド(NZ)大会は、経験の重みが身に染みる大会となった。
その4年間、大野はファーストメンバーではなかった。ヘッドコーチのジョン・カーワンからは、密集での存在感が薄れていると理由を説明された。「でも、ふて腐れなかった。メンバーに入れなくて、そういう態度を取る選手、いるんですよ。見ていて、格好悪いなって。試合に出られなくて悔しいのは当たり前。それをプレーではないところに出してしまうのか、練習にぶつけるのか。自分は後者でありたかった」
後半途中まで競り合ったフランスとの初戦はリザーブ。21—47の善戦で出番は訪れなかった。「早く出せ、早く出せ、と必要以上にウォーミングアップしたんだけど」。さすがの大野も腐りそうになったという。「そうしたら、JK(カーワンの愛称)が『出してやれず、申し訳ない。次のオールブラックス戦で体を張ってくれ』と。JKにそこまで言われたら、ね」
気力充実で臨んだはずのNZ戦、7—83と歯が立たなかった。主将のFLリッチー・マコウやSOダン・カーターは温存されたものの、HOケヴィン・メアラム、LOはブラッド・ソーンとサム・ホワイトロックで、CTBにマア・ノヌーとコンラッド・スミスという垂涎の顔ぶれ。トライ数にして1本対13本。ある意味、仕方ない結果と言えなくもない。
ただ、すでにベテランの領域に足を踏み入れていた大野は納得できなかった。彼我の差を大きく分けたのは、経験なのだと33歳は感じていた。
「試合後の率直な印象は、83点も取られるほどの実力差はなかったということ。僕らはオールブラックスと戦うのは初めてで、相手を勝手に過大評価してしまった。勝手に自分たちで萎縮して、普段なら起こり得ない単純なミスをして、そこを突かれてトライされて、また勝手に焦って。その悪循環で、どんどん点差が広がっていった」
「2年に1度でも、あのクラスのチームと対戦できていたら、もっと冷静に物事を見られて、違うメンタルで試合に入れて、83点も失うことはなかったはず」
もし、あのクラスの相手に体を当てた経験があったなら。変幻自在に映るオフロードパスに対しても、もっとやりようがあった。もっと素早くプレッシャーをかけてパスを放らせないようにする。もっとダブルタックルを徹底する。
もし、あのクラスの相手とセットプレーで対峙した経験があったなら。2メートル級が待ち構えるラインアウトでも、もっとやりようがあった。高さに臆せず、日本のアジリティーを駆使して相手を置き去りにする。重さや大きさにおびえず、まずは自分たちが準備したムーブを信じ、試みてみる。
「結局、チームとしても個としても、世界と日本を客観的に位置づける『物差し』を持っていなかったんです」
その「物差し」を手にする機会は、さかのぼれば大野がジャパンデビューを飾った2004年に失われていた。秋の欧州遠征。8—100でスコットランドに、0—98でウェールズに無抵抗なまま敗れた。1995年W杯でNZに145点を差し出した惨劇に次ぐ歴史の汚点。それ以降、ティア1の強豪とテストマッチが組まれることはなくなった。