【大野均からのメッセージ/その2】ジャパンの物差し。
大野はスコットランド戦に先発していた。
「100点ゲームをやられて、ヨーロッパに呼んでもらえなくなった。いまみたいにイングランドやフランスと試合をできていたら、W杯でフィジーにも、カナダにも勝てていたと思う」
ジャパンが自らまいた種だった。強化は何年もの遅れを強いられた。
経験不足の連鎖は続く。トンガとの第3戦。大舞台では一つのミスが命取りになると、いまさらながらに思い知らされた。
相手ボールのキックオフ。キャッチして、サインプレーで穴を突く練習通りの展開が現実になりかける。ところが、カンペイに似た動きからライン参加した主将のNO8菊谷崇が、痛恨のノックオン。ジャパンは7分近くゴール前で防御を強いられ、先制トライを許した。劣勢をはね返せず、勝利を計算していた相手に屈して18—31。点差はそれほど開かなくても、内容は完敗だった。
「ずっとジャパンに勝てなかったトンガが、W杯では別のチームになっていた」。途中出場の大野もまた、改めてW杯の怖さを思い知らされた。
最終戦の相手は2大会続けてカナダ。2大会続けてジャパンは引き分けた。試合展開は真逆だった。ラストプレーで追いついたのが4年前。今回は後半34分まで保っていた8点のリードを守りきれなかった。
やっぱり、大野は途中出場だった。「残り数分まで勝っていて『いける』という気持ちが芽生えたのが、油断につながった。ちょっとしたタックルミスで、ちょっとずつゲインされて『あれ、あれ?』って。フランス大会は勝ちに等しい引き分け、NZ大会は負けに等しい引き分けだった」
大野は菊谷と抱き合って涙した。4年前と同様、もらい泣きだった。
「ジャパンで初めて、年下のキャプテンがキクちゃんだった。大変なプレッシャーがあっただろうに、ずっと頑張ってきてくれたから」
その夜、やっぱり飲んだ。1日のオフを挟み、帰国の日。カーワンは「NZに残る」と言い残してチームバスを見送った。「お前なら、まだまだできる」と大野は声をかけられた。「『辞める』という言葉はなかったけれど、JKとはこれが最後なんだなって伝わってきた」
サイズを重用しすぎた選手選考、創造性に欠けた戦術、勝利を逃した事実。いま、2度のW杯を率いたカーワンについてはネガティブに語られることが多い。大野は、どう感じたのか。
「ラグビーの戦術って、無数にあるじゃないですか。どれが正解っていうのはないわけで。JKの戦術はJKの戦術で、納得して取り組んでいました」
「本当に厳しい人だった。ちょっとしたミス、気持ちが抜けているような選手に対して言葉のプレッシャーがすごくて。練習もきつかった。さすがに早朝練習はしなかったけれど」
そう懐かしむと、すぐ、大野は真剣な顔に戻った。
「あれ以上の厳しいメンタルで、あれ以上のハードワークをしなければ、ジャパンはW杯で勝てない。そう教えてくれたのが、JKと一緒に戦った2度のW杯だったと思う」
NZ大会を終えた時、次の指揮官が誰になるか、まだ決まってはいなかった。合宿で午前5時台から練習を課す人がジャパンを率いることになるとは、選手の誰も知らされてはいなかった。
それが、あの歓喜につながることも。
「JKの下で自分たちを追い込んで、戦って、勝てなかったあの時代があったからこそ、エディーさんの練習にも耐えられた。耐えなきゃ勝てないって、身に染みてわかったから」
歴史はつながっていた。
【筆者プロフィール】
中川文如(なかがわ・ふみゆき)
朝日新聞記者。1975年生まれ。スクール☆ウォーズや雪の早明戦に憧れて高校でラグビー部に入ったが、あまりに下手すぎて大学では同好会へ。この7年間でBKすべてのポジションを経験した。朝日新聞入社後は2007年ワールドカップの現地取材などを経て、2018年、ほぼ10年ぶりにラグビー担当に復帰。現在はラグビー担当デスク。ツイッター(@nakagawafumi)、ウェブサイト(https://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/)で発信中。好きな選手は元アイルランド代表のCTBブライアン・オドリスコル。間合いで相手を外すプレーがたまらなかった。