コラム 2026.11.06

【ラグリパWest】達人の域㊦。長谷川慎 [静岡ブルーレヴズ/スクラムコーチ]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】達人の域㊦。長谷川慎 [静岡ブルーレヴズ/スクラムコーチ]
静岡BRのスクラムコーチをつとめる長谷川慎さんは現役時代、日本代表の左PRだった。京都の実家の部屋には当時の写真などが飾ってある。中央のパネルは日本代表として出場した試合のもの。右が長谷川さん、中央は薫田真広さん(現・BL武蔵球団社長)、左は田倉政憲さん(現・京産大FWコーチ)である

 長谷川慎はスクラムの権威である。

 愛称「シンさん」は来年3月で55歳。名コーチに名選手がなった稀有な人でもある。

 日本代表でのW杯出場は4回。コーチで2019、2023年、選手で1999、2003年である。

 今はスクラムを教える。左PRとして国際試合出場を示すキャップは40。現役時代の体格は179センチ、102キロだった。

 シンさんのスクラム指導はわかりやすい。
「8人の力を漏らさないようにする」
 その分、脚や手の位置にまでこだわる。

 今は静岡ブルーレヴズのスクラムコーチだ。略称は<静岡BR>。以前の名は保有企業を冠したヤマハ発動機ジュビロだった。

 シンさんは自認する。
「僕は運がいい」
 今までの人生をひと拭きで表現した。

 高校は京都の私立、東山に行けた。
「バブル景気が来ました」
 母が保険の外交員として学資を稼ぐ。

 中央大からのサントリー入りも運と言う。
「獲得予定だった他大学の同期が留年した」
 OBでサントリーLOだった甲野晃弘が大学に希望者を募りに来る。手を挙げた。

 サントリーは今、東京SGに名を変える。ここでは選手として一筋14年、現役引退後すぐにコーチについた。3年やった。ヤマハ発動機に来たのは2011年。そのチームを移る合間に1か月ほどフランスに滞在した。

 欧州でスクラムを学ぶ。それも幸運か。
「18チームくらい回ったかな」
 2003年のW杯は29-51で敗れた。
「組み勝っているのに持っていかれた」
 その状態なら、基本的には押されない。

 前3人は左からシンさん、サントリーの一年後輩にあたる坂田正彰、山村亮だった。山村はS東京ベイのコーチをつとめている。
「トイメンはそんなに大きくなかった」
 その秘密が知りたくなった。

 フランスを行脚した結果、秘密はない、という結論に達した。
「みんな言うことがばらばら」
 フィリップ・ベルビジェの言葉が残る。
「3番が押されるのは6番のせいだ」

 右PRと左FLはほぼ対角線上で、一番遠いところにいる。2003年のW杯ではフランスは日本よりも8人で組むことが上回っていたのだろう。ベルビジェは2年後、臨時コーチとしてヤマハ発動機を訪れている。

 フランスでシンさんは独創性を知る。
「人のものを採り入れながら、アレンジを加える、そしてオリジナルを作ってゆく」
 芸道の守破離である。守って、破って、離れる。自分の流派を立てる。

 シンさんの受けは広い。現役時代には左PRとHOを経験した。その競技を始めたのは4歳。京都ラグビースクールだった。
「母がラグビー好きだった」
 中学は七条(しちじょう)。競技を続けた。

 東山は青いジャージーが格好よかった。入学後、体を必死で大きくする。
「深さ17センチの弁当箱を持って、牛乳4本をかばんの中に入れて登校しました」
 高2で左PRのレギュラーになる。

 その1988年度、全国大会に出場する。68回大会は8強敗退。淀川工(現・淀川工科)に8-10だった。チームの出場は2回目。京都府内では花園、伏見工(現・京都工学院)の2強に肩を並べた頃だった。

 中央大進学は東山の監督だった中丸良雄に相談した末だった。花形の法学部に入った。
「1年がよくなく、2年から勉強しまくった」
 4年時にはチームが大学選手権に出場する。30回大会(1993年度)は1回戦敗退。京産大に22-57だった。

 サントリーでは坂田が入ってきたため、HOから左PRに戻る。優勝はリーグワンの前身である全国社会人大会、日本選手権を3回ずつ経験した。日本代表での初キャップは4年目の1997年。6月29日の香港戦でFLの小泉和也と交替出場する。

 選手としてのW杯は2大会ともに予選プール敗退。現役引退は2008年の3月だった。コーチを経て、ヤマハ発動機にゆく。2016年秋から日本代表のコーチについた。2014-15シーズンのトップリーグ準優勝や52回目の日本選手権での優勝を評価された。

 2017年から2年はサンウルブズのスクラム担当コーチも兼務する。チームは南半球のスーパーラグビーに日本から参戦していた。コロナの影響もあり、2020年に解散する。2回のW杯は日本開催だった2019年には8強、2023年はプール戦で敗退した。

 トップリーグは2022年にリーグワンに、チーム名も変わった。その流れの中でもシンさんは静岡BRに大切にされた。
「関係はずっとありました」
 つながりは16年目。来た時は39歳だった。
「恩義がある。簡単にポイっとはできない」

 シンさんはコーチとしても運がいい。
「誰と組むかやから」
 ヤマハ発動機に誘ってくれた清宮克幸、日本代表ではジェイミー・ジョセフ、静岡BRでは藤井雄一郎という監督の下についた。任され、機嫌よく仕事をさせてもらっている。

 スクラムはひとりで教えている。教え子でもある田村義和は近鉄Lのコーチになった。
「8年ぶりかな。メインでやるのは」
 シンさんは単身赴任を続けている。
「よい点がひとつ。何時間でも仕事ができる」
 ずっとスクラムのみを考えられる。

 同僚たちには感心する。
「熱量はすごい」
 監督の藤井やコーチの大戸裕矢、矢富勇毅らを見て、静岡BRの近未来を予測する。
「優勝するでしょう」
 制覇に不可欠な運のよさをシンさんは持ち続けている。運は何よりも大切なものだ。

(達人の域㊤㊦終わり/㊤はこちら)

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