地元愛、これからも。山路健太[三重ホンダヒート/SH]
生まれ育った場所で、ブーツを脱いだ。
三重ホンダヒート一筋13シーズン。山路健太は長くレギュラーを張り、山あり谷ありのチームを支えたスクラムハーフだった。
8月で36歳になった。3季前までほとんどの試合で背番号9を背負うも、2季前に根塚聖冴や北條拓郎が台頭。昨季は土永雷、竹中太一らも勢いをつけ、出場ゼロだった。
「若い選手たちは良い子ばかりですし、すごく成長もしています。活躍している姿を見られるのは嬉しい反面、自分が出られない悔しさもあり、って感じでした」
メンバーの選出はヘッドコーチの専権事項だ。「選ばれたら活躍できるように常に準備しておくだけ」と、さほどブレなかった。
「ずっと試合に出させてもらっていたので、まずは試合に出て活躍しようという気持ちがベースにありました。でも、それだけではチームは良くなりません。次の世代に自分ができることはなんやろうかと考えました」
ノンメンバーとなってからは、より若手を気遣った。「調子どうや?」とさりげない声かけを続けた。
「シーズンが深まると、チームが二つに分かれてしまう傾向にあります。試合に出られないメンバーはストレスが溜まってくる。そういう時にどういう声をかけるか、ですね」
コンディションは万全だった。当初は肩を叩かれるまでプレーを続けるつもりだったが、周りの環境の変化もあって自ら引退を決めた。
数年前、本拠地移転を決めたチームから「栃木に行くつもりはあるか」と問われ、「ないと答えました」。
「僕は鈴鹿出身です。ここに残りたいという気持ちがありました。もちろん年齢も年齢ですし、メンバーもごそっと入れ替わっているので、今がそのタイミングなのかなって。若いチームをサポートしてほしいと声をかけていただいたので、今シーズンまで続けようと決めました」
四日市工でラグビーを始めた2歳上の兄の影響で、自身も高校から楕円球を追うと決めた。
それまでは野球少年だった。
兄から「せっかくなら三重県で1番強いチームに」との勧めを受け、四日市農芸に進んだ。
1年時はSH、2年時はFL、3年時はSOとポジションを転々とした。
「前半はFL、後半はSH、なんて時もありました」
それを両立できたのは、チーム内でトップの体力を誇ったからだ。
下村大介監督(当時)は陸上競技出身とあり、「ひたすら走らされました」と表情を崩す。
1500メートル走は、制限タイムを切れなければ「やり直し!」が常。20往復課された”ランパス”も、終盤に「もう一回はじめから」と言われることもしばしばあった。
「三重はラグビーがそこまで盛んではなかったので、体力があれば勝てると踏んだのだと思います。野球をやっていた時もずっと走っていました。大学もその貯金でやってこられました」
当初は就職する予定だった。しかし監督から「お前の大学は決まっているから」と諭され、関東学院大へ。
「親に相談しても、先生が正しいから、と(笑)。いま振り返れば、感謝しかないです」
2季前に日本一になったチームは、「SHだけで15人もいました」。
一つひとつ階段を上り、3年時にリザーブ入り。1学年上には大島脩平(元東芝)がいた。
「パスの投げ方などの基礎を先輩たちに教えてもらえて、試合に出られました」
レギュラーを掴んだ4年時には、大学選手権で5年ぶりにベスト4入りした。
2回戦で宿敵・早大を28-26で破った。
「あそこまでいけるとは思っていなかったです。試合をやりながら、あれ、いけるんちゃうか、と」
卒業後は当時トップウェストに所属していたヒートに入団。即決だったという。
「ヒート一択でした」
地元が好きだ。「手のかかる子だったので」、両親への恩返しにもなると思った。
「初めて見た社会人の試合も、もちろんヒートでした。確か中部電力が相手で、圧勝したんです。ヒートってこんなに強いんだと思っていたんですけど、いざ来たらそんなに甘くなかったですね(笑)」
在籍した13シーズンで、昇降格を5度も経験した。入替戦に進んだ回数はさらに多い。
「全部が良い思い出です。当時はきついと思ったこともありましたけど、それは仲間と共有できる。きつかったからこそ、強い繋がりが生まれます。
良い仲間に恵まれました。僕は身体が強い方ではないので、アイツにやられたとチクったらやり返してくれました(笑)」
社業に専念しているいまも希望通り、鈴鹿ライフを続けている。
小林亮太らヒートのメンバーと地元の友人が実家に集まる恒例のBBQも、引き続き開催できそうだ。
地元愛は、これからも続く。




