コラム 2025.01.22

【ラグリパWest】日本ラグビーに寄り添う㊤。太田治 [NECグリーンロケッツ東葛/GM]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】日本ラグビーに寄り添う㊤。太田治 [NECグリーンロケッツ東葛/GM]
日本ラグビーの進むかたわらにいて、今は古巣であるGR東葛のGMについた太田治さん(左)。昔から市井のラグビーファンを大切にする。右は大阪・松屋町筋にある角打ちの「木下裕義酒店」の店主、木下忠彦さん。木下さんは出身大学の同志社のファンで、太田さんの明治時代のことも覚えている

 太田治は3月23日、還暦を迎える。早生まれ。同期は60歳が多い。「おさむ」とその名を親しみを込められて呼ばれる。

 ラグビーを正式に始めたのは15歳。高1の秋前だった。それから半世紀弱、楕円球は常に太田のかたわらにある。

 社会人では選手から首脳になり、日本代表からトップリーグ、それを発展させたリーグワンなどでも責任ある立場についた。この国のラグビーの歩みを間近で知る。

 太田は丸い顔全体を緩める。
「ラグビーは自分にとって人生そのもの。非常に満足しているよ」
 左PRだった現役時代は大きかった。184センチ、115キロ。その体とにこやかな顔はおすもうさんの親方でも通る。

 太田は定年を迎えても、次の居場所を探す必要はない。母なるチーム「GR東葛」で生きる幸せを得ている。うらやましい。

 その正式名称はNECグリーンロケッツ東葛。太田は実質的トップのGMである。社会人からはこの緑のジャージーが太田の信用の裏打ちになった。チームは今、リーグワンのディビジョン2(二部)に所属する。

 GR東葛は昨年12月21日に開幕したシーズンで目標をひとつクリアした。1月11日の<Re:柏の葉1万人CREW計画>である。
「ラグビーはまだマイナースポーツだと思う。だから1万人を集めようって計画よ」
 柏の葉公園総合競技場はGR東葛のホームスタジアム。千葉県にある。

「Re」がつくのは、昨年3月24日の<柏の葉1万人計画>がその大台に乗らなかったからだ。レギュラーシーズン最後のホストゲームで試みられたが、目標としていた1万人の観客動員は8682人に終わった。試合は42-26とS愛知を降している。

 ファン数と強さは基本的に相関関係にある。今回は緑色のホッケーシャツを来場者にプレゼント。動画クリエーターなどで活躍する「しなこ」や漫才の「ミカボ」、和太鼓のパフォーマンスなどで一般の興味も惹起させた。キッチンカーは過去最大の30台が出店した。

 その甲斐あって、2年越しに目標を越えた。観衆は10646人。昨年より約2000人増えた。
「選手、スタッフや関係者の尽力のたまもの。GMとして非常に感謝しています」
 太田はチーム全体に謝意を送る。

 観客動員はリーグワン全体のこの節を通して2位。1位は東京SG×S東京ベイの11379人だった。ただ、ディビジョン1としての試合や東京・秩父宮開催の地の利を考えれば、GR東葛の奮闘が伝わってくる。

 その1万人の後押しがあり、日野RDを56-19で降した。4節終了時の暫定順位は勝ち点10で8チーム中3位。ディビジョン1との入替戦に出るためには、もうひとつ順位を上げ、最低でも2位以内を確保しないといけない。今シーズンから入替戦出場のチーム数がひとつ減った。

 昨シーズン、GR東葛はレギュラーシーズンこそ2位だったが、順位決定戦は3位に転落した。ディビジョン1で10位だったBR東京との入替戦は21-40、0-55と連敗する。

 太田にとって、この順位決定戦3位はGMとして初シーズンだった。就任は一昨年、2023年の12月だった。
「戻って来ないか、と声をかけてもらえた」
 それまでは、リーグワンの常務理事と日本協会の男子7人制代表のチームディレクターを兼務していた。代表チームは離任の前月、パリ五輪出場を決めている。

 再び太田を迎え入れてくれたGR東葛は、企業名のNECとしてスタートした。太田の入社と入部は1987年(昭和62)4月。創部はその2年前、若いチームだった。

 太田は明治の大学4年時、左PRとして日本代表に選ばれる。初キャップはアメリカ戦。1986年5月31日、ロサンゼルスであった。試合は9-9で引き分けた。キャップ数は最終的に27まで積み上げる。

 将来有望な左PRはその未来を託すのに、ほぼできたてのチームを選んだ。
「りゅーこーさんが行ってたし、初代監督の高田司さんは高大の直系だったからね」
 2人とも太田と同じ秋田県の出身であり、明治の先輩だった。

 田中龍幸はひとつ上のLO。出身高校は秋田市立(現・秋田中央)だった。高田は秋田工から太田の先輩になる。14学年上。HOとして日本代表キャップ18を得た。

 NECで3年目の1989年、日本代表の先発メンバーとして金星を手にする。5月28日、スコットランド代表を28-24で降した。秩父宮での一戦は、当時の世界のラグビー統括機関であるIB(International Board)の先進8か国からの初めての勝利になった。

「スコットランド戦はさあ、必然だったのよ。宿澤さんがさ、こうやったら勝てる、って教えてくれたからさ。まあ、具体的なことは忘れちゃったけどね、昔のことだからなあ」

 このおおらかさも太田の魅力のひとつである。36年前の細かいことは覚えていない。ただ、自分も含めて先発15人は空で言える。
「1番はおれだろ、藤田さん、田倉…」
 HOは藤田剛、右PRは田倉政憲。日本代表キャップは32と16。藤田はクリーンファイターズ山梨のFW統括コーチ、田倉は母校・京産大のFWコーチをつとめている。

「宿澤さん」は監督だった宿澤広朗。大きくて、体が強い太田に目をつけて、大一番に左PRに抜擢した。このスコットランド戦は太田をはじめスクラム踏ん張りがあった。

 宿澤は2年後の第2回ワールドカップも監督として代表を率いた。太田も選ばれ、全3試合に先発した。ジンバブエ戦は52-8。日本のワールドカップ初勝利を記録した。宿澤は19年前、登山中に心筋梗塞を起こし、永眠した。55歳だった。

(日本ラグビーに寄り添う㊥に続く)

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