コラム 2025.01.23

【ラグリパWest】日本ラグビーに寄り添う㊥。太田治 [NECグリーンロケッツ東葛/GM]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】日本ラグビーに寄り添う㊥。太田治 [NECグリーンロケッツ東葛/GM]
GR東葛の太田治GM(中)は現役時代、日本代表の左PRとしてキャップ27を得る。写真は1992年、韓国であったアジア選手権。右は右PRだった高橋一彰さん。現在はトヨタVのアドバイザーをつとめる。左はHOだった西原在日さん。太田GMの明治大、NECの後輩にあたる(撮影:BBM)

 太田治はGR東葛のGMである。このリーグワンのディビジョン2(二部)所属のチームを実質的トップとして支える。現役時代もここ、当時のNECでプレーした。

 太田は184センチ、115キロの大きさや強さを生かし、左PRとして日本代表キャップ27を得る。ワールドカップは1991年の第2回、4年後の第3回大会と連続出場する。どちらも予選敗退だったが、ともに全3試合に先発した。不動の背番号1だった。

 太田は背番号3を尊敬する。逆サイドで左右からスクラムの重圧を受ける右PRだ。そこに入って試合中にケガをした。左から右への単純な移動ではないことを身をもって知る。

 ケガをしたのはニュージーランドだった。短期のラグビー留学中だった。
「オロ・ブラウンと組んだんだ」
 ブラウンは右PR。ニュージーランド代表の背番号3として56キャップを得る。

「押せたんだよな。こんなもんかと思った。だから、ケガ人が出た時に慣れない3番に入ったんだよ。そうしたら肋骨にひびが入った。おれには難しかった。3番は大変だよ」

 太田は高橋一彰の名前を挙げる。
「日本人で強かった3番は高橋かなあ」
 高橋は日本代表のチームメイト。キャップは21。所属はトヨタ自動車(現トヨタV)だった。今はアドバイザーをつとめている。

 1995年、太田は第3回ワールドカップに出場する。日本代表はニュージーランド代表に17-145で大敗した。この記録は現在でも大会最多失点などとして残っている。

「忘れたころに、映画があった。ネルソン・マンデラを演じたモーガン・フリーマンのセリフが、ニュージーランドは145点を取ったらしいな、だった。また思い出しちゃったよ」

 映画は『インビクタス』。日本では15年後の2010年に公開された。この大会で南アフリカがアパルトヘイト(人種隔離政策)を乗り越え、マンデラ大統領の下、ワールドカップでの初優勝までの軌跡を描いている。

 太田が日本代表でキャップを得るベースはNEC。1987年4月に3期生として入り、現役引退は1999年3月。この緑のチーム一筋に12年プレーした。生え抜きだった。

 最後の2年は東日本リーグで3位だった。当時、社会人ラグビーは東日本、関西、九州の三地域に分かれ、それぞれでリーグ戦を戦い、全国社会人大会で日本一を決めていた。

 2000年から3年間は監督をつとめた。最初の2年はリーグ2位。ラストイヤーの2002年はリーグ7位から、全国社会人大会4位に入り、日本選手権を制する。7位からの躍進に「ミラクル・セブン」と呼ばれた。

「あの時はね、はやりのシークエンスをチームに入れたんだ。でもうまくいかなかった。それで、自由にやれ、って言ったんだ」

 シークエンスとはポッドの前身でどこにボールを運ぶかを前もって決めておく。選手はそのサインを前腕にマジックで書きまくっていた。ラグビー本来の選択の楽しさはない。

 解き放たれたNO8箕内拓郎(現RH大阪アシスタントコーチ)らは40回日本選手権で初優勝する。決勝はサントリー(現・東京SG)に36-26だった。太田は続ける。

「それに、あの頃は会社の業績もよくなく、休部の可能性もあった。まあ、追い込まれたから力を発揮したっていう感じだね。選手のおかげだよね。俺の力じゃあないよ」

 2005年8月から日本代表の初代GMについた。日本ラグビー協会へ出向する。
「NECは安定した。次は自分も戦った代表のため、という思いが強くなった」
 翌年、ヘッドコーチ(監督)だったジャン=ピエール・エリサルドが母国・フランスのバイヨンヌとの二重契約問題が浮上する。

「バイヨンヌまで行って、向こうの会長ともめしを食った。歓待してくれたけど、その話は『ノン』。まあ、日本協会との契約に抜けがあったのも事実だったんだよね」

 エリサルドが去り、太田は「JK」の愛称で知られるジョン・カーワンの招へいを考える。
「次は誰でいくんだ、とリストアップしたけれど、JKくらいしかいなかった」
 カーワンはNECのチームメイトで同級生。WTBとしてのニュージーランド代表キャップは63を得る。現役引退後はイタリア代表のヘッドコーチをつとめていた。

 エリサルドの契約解除とカーワンのヘッドコーチ就任まで2か月ほどの空白期間があった。その間、2つのテストマッチ(国際試合)で監督代行をつとめる。太田はおどける。
「連勝だから勝率は100パーセントなんだ」
 香港に52-3、韓国には54-0。2006年11月、ワールドカップのアジア最終予選だった。

 カーワンが就任8か月ほどで臨んだ2007年の第6回大会は予選リーグ敗退。1分3敗。カナダに12-12だった。
「JKは短い準備期間でそれなりに結果を残してくれた。だから次の大会も任せたんだ」
 4年後のワールドカップは前回大会と同じく予選リーグ敗退。1分3敗。23-23の引き分けはまたカナダだった。

 2大会ともにカーワンはチームを2つ作り試合に臨んだ。太田は振り返る。
「勝つための賭けになったよね。スケジュールや経験値の問題があった」
 6回大会は初戦のオーストラリア戦に「セカンド・チョイス」と呼ばれる控え中心で臨み、7回大会は2戦目のニュージーランド戦でそのセカンド・チョイスをぶつけた。

 6回大会は本命とした2戦目のフィジー戦まで中3日、7回大会は勝ちにいった初戦のフランス戦から中5日しかなかった。実力下位のチームは日程も不利だった。

 太田は7回大会の終わった2011年12月、GMを退任する。その後、トップリーグの委員長やチェアマンを歴任する。リーグは2003年、三地域の社会人リーグを統一してできた。2021年、トップリーグは発展形のリーグワンになり、太田は常務理事についた。

 そして、男子7人制日本代表のチームディレクターを経て、昨年12月、母なるチームであるGR東葛に復帰。GM専従となった。

(日本ラグビーに寄り添う㊦に続く)

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