【ラグリパWest】分析とコーチングの融合。濵村裕之 [Rugby Performance Lab./代表]
濵村裕之(はまむら・ひろゆき)はラグビーにおけるアナリストとして先駆け的な存在である。この役職は日本語で「分析」と表される。
分析とは?
「簡単に言うとコーチや選手がいい準備をできる情報を与える仕事ですね」
試合における彼我の攻守、スクラムやラインアウトでの動き、タックル回数や走行距離なども含め、その仕事は多岐にわたる。
濵村は51歳。この仕事に従事して20年ほどが経つ。過去の「顧客」には日本代表やリーグワン一部の東芝ブレーブルーパス東京、南半球の代表や強豪チームが含まれる。
その経験や知見にコーチングに溶け込ませ、これからは一般に開放する。
Rugby Performance Lab.
組織の名称は「ラグビー・パフォーマンス・ラボ」。濵村が代表となり、今年6月、本格的に故郷の大阪で立ち上げた。
「出会った人々やチームのパフォーマンスが上がり、よりよい人生を送ってもらえればよいかな、と考えています」
その強みはヘッドコーチの経験もあることだ。近鉄(現・花園近鉄ライナーズ)や母校の龍谷大を指導した。そのため、大所高所からの判断もできる。ただの映像や数字に強いオタクではない。
すでに成果は出している。ナナイロプリズム福岡の分析を請け負い、太陽生命ウィメンズセブンズシリーズに初参戦ながら、年間総合4位、花園大会では2位に押し上げた。このシリーズは4戦制。日本で唯一の女子7人制のサーキット大会である。
その分析に濵村がのめり込んで行ったのは、コーチ研修で衝撃を受けたからである。ニュージーランドのオークランドだった。
「サモア代表の映像を見て、戦い方などをディスカッションしました。それが終わった時、なんとヘッドコーチ本人が現れて、考えやその時の判断基準を語ってくれました」
ヘッドコーチはジョン・ボー。2003年のW杯では予選敗退も、ウルグアイとジョージアからは白星を挙げる。濵村にとっては生の声が聞け、最高の学びになった。
濵村の社会人としての振り出しはヤマハ発動機(現・静岡B)だった。
1994年、SHとして龍谷大から入社した。現役生活は7年。その後はテクニカルになった。分析の旧名である。ヤマハではニュージーランドに派遣され、3年ほどラグビーを学んだ。
2004年に退社。翌年から2季、ブルーズの分析に携わる。オークランドを本拠地にするスーパー14(現スーパーラグビーパシフィック)の強豪だった。濵村はスーパー14にスタッフとして入った最初の日本人になる。
2006年、近鉄にヘッドコーチとして招聘される。2年目にはチームを二部のトップウエストで優勝させ、トップリーグに昇格させた。濵村はコーチとして自信を得る。
「松岡、重光、ミキオ、トーエツらがその後もチームに軸になってくれました」
LO松岡勇、SO重光泰昌、NO8佐藤幹夫、FLタウファ統悦は今でも選手やスタッフとしてチームを支えている。
その後、日本代表に分析として加わる。2011年の第7回W杯に参加した。チームは3敗1分。予選リーグで敗退する。その時、W杯時の島しょ国家の強さを感じる。
「彼らは大会で名前を売って、欧州などのビッグクラブへの移籍を考えています」
そのため、より必死になる。この大会ではトンガに18-31だった。大会2か月前の前哨戦では日本は28-27で勝っていた。
大会後には1年間、オーストラリア協会で分析をやった。2013年から4年間は母校の龍谷大でヘッドコーチをつとめる。その間、男子7人制日本代表にも帯同。2016年のリオ五輪での4位入賞を分析の立場で下支えした。
龍谷大の次は東芝。6季を過ごした。トップリーグ、その後のリーグワンでの最高位は2022年の4位。契約切れに伴って、それまで温めていた構想を今回、実現させた。
新しい組織の立ち上げに出費は避けられないが、幸いこれから教育費はかからなくなる。下の子の大斗(だいと)は大学4年。同じラグビーマンだ。関大のFBである。
ちょうど今の大斗と同じ時期、濵村にとってラグビーがもっとも楽しかった。
「やりたい放題でした」
龍谷大には監督はいたが、運営は選手たち。入学前年に関西Aリーグに昇格していた。そのチームの勢いも選択理由のひとつだった。
2学年上のSHは石川充。今、クボタスピアーズ船橋・東京ベイをGMとして率い、今年5月、リーグワンで初優勝を遂げた。濵村は石川の卒業後、レギュラーになる。
4年時、チーム最高となる関西3位で大学選手権に初出場する。30回大会(1993年度)は初戦で日体大に15−32で敗れた。
「静岡の草薙であったのですが、みんなでワイワイしながら行きました。遠足でした」
そして、同じ県内にあるヤマハにゆく。
濵村が今につながる競技を始めたのは中学入学と同時だった。大阪の高槻(たかつき)にある如是(にょぜ)である。
「仮入部で試合の真似事のようなことしました。それが楽しかったのです」
高校は大阪の三島に進んだ。
そしてその開始から40年ほどが過ぎ去った。それでもまだ飽きは来ない。
「分析の仕事は徹夜が当たり前です」
そう笑う。好きだからこそ続けてゆける。これからはその情熱を市井の人々やチームに向ける。その熱さは冷めることはない。