【ラグリパWest】スパルタ教育。梯忠弘 [和歌山県立和歌山工業高校/ラグビー部元監督]
和歌山は江戸時代、紀州と呼ばれた。8代将軍・吉宗を出す。平野から山地まで緑に覆われ、沖には群青の暖流が走る。もの成りがよいため、人気(じんき)は穏やかだ。
紀州は、司馬遼太郎が著した『ニューヨーク散歩 街道をゆく39』に表現されている。
<南方熊楠という巨大な魂を生んだ>
熊楠(くまぐす)は生物や民俗などの分野で世界的な学者だった。
この地に梯忠弘(かけはし・ただひろ)は生きた。和歌山の高校ラグビーを発展させたひとりでもある。
梯の名を私が知るのは1984年(昭和59)だった。高3になる春である。近畿地区の高校ラグビーの講習会がこの地であった。梯はその世話役だった。和歌山工の部長兼監督であり、保健・体育の教員でもあった。
大阪から一緒に呼ばれた井出達朗や部谷隆典は同志社で、高田広は筑波でレギュラーを張った。私は父の七光りだった。
次に梯に会ったのは20年くらいの時が経っていた。大西健に一流ホテルのバーに連れて行ってもらった。そこに梯がいた。大西は京産大ラグビーを築いた元監督である。
梯は私に言った。
「あなたのお父さんは高校ラグビーのために尽くされました」
髪を短く刈り込み、ぎょろっとした目は、追うか、追われるかの迫力があった。
父は記録方で活動し、70回全国大会では功労者表彰を受けた。大会は開催するラグビー場から「花園」と呼ばれている。
3回目に梯が出て来たのは最近だ。岡本吉隆と子女のことでメールのやり取りをした。
<梯先生のスパルタ教育でいきます>
岡本は花園出場校ガイドに書かれていた教育信条「スパルタ」が、こども心に強烈に映ったらしい。
岡本の父の博雄は淀川工(現・淀川工科)の監督として花園に5回出場した。その教育信条は「真面目、素直」だった。梯とは盟友だった。1971年、和歌山開催の黒潮国体で地元のために戦った。ともに今は彼岸にいる。梯は14年前、66歳で迎えが来た。
梯は和歌山工に2期17年にわたって勤務する。この深紅のジャージーは県下最多の花園出場24回を誇る。梯は監督として6回に関わった。1期目は奈良と代表権を争った。代表名は紀和。天理に勝ちがたかった。
その出身は紀伊水道を挟む対岸の徳島である。鴨島商(現・吉野川)を出て、2年間、信用金庫で働いた。そして、国士舘に入学する。現役時代のポジションはFL。卒業後は国体の絡みもあり、和歌山に赴任した。
当時の国士館は猛練習で有名だった。和歌山工におけるスパルタの源泉である。ランパスはグラウンド100メートルを4人ほどでパスをつなぎながら全力往復を繰り返す。それが始まると梯は姿を消す。「遠山の金さん」の再放送を見ている、といううわさが流れた。
部員たちは手を抜くわけにはいかない。サボっているところを見られたら、大変なことになる。少なくともテレビの時代劇は1時間近くかかる。その間、全力で走る。
梯は人が見ていようがいまいが、走り切ることを教えていたのだろう。だからこそ、47歳になった岡本にはスパルタのすごみがわかる。小学校入学前の子女は、その意志で出たすもう大会で3季連続の優勝を果たした。
岡本と梯の長男の識夫(のりお)は大西が率いた京産大のラグビー部で後輩と先輩になる。岡本が入学した時、のりおは4年生だった。ともに教員2世。のりおの同期は大畑大介だった。神戸製鋼(現・神戸S)に進み、WTBとして日本代表キャップを58得た。
4年時の大学選手権は34回大会(1997年度)。4強戦で関東学院に38-46で敗れた。点差は8。のりおは振り返る。
「あと10分ほどあれば勝てました」
京産大が最初に日本一に近づいたのは30年ほど前だった。関東学院は決勝で明治を30-17の13点差で降している。
のりおの両の目じりは下がり、柔らかさがある。和歌山工入学後に競技を始めた。
「中学に部活動がありませんでした」
和歌山は野球県だ。古くは旧制の和歌山中(現・桐蔭)や箕島、近年では智辯和歌山が甲子園優勝を成し遂げている。
のりおがラグビーをスタートさせた気持ちを岡本が代弁する。
「のりおさんはお父さんがめちゃめちゃ好きやったはずです」
その証に父を追う。岡本も淀川工で父に学び、高校教員になった。今は北摂つばさで保健・体育とラグビーを教えている。
梯とのりおは親子鷹として花園に出場する。72回大会(1992年度)だった。のりおは2年生HOとして先発する。
「うれしかったのですが、開始10分くらいでろっ骨を折って退場してしまいました」
磐城に5-66と1回戦で負けた。
京産大進学について話す。
「おやじが頼んでくれたと思います」
のりおの10ほど上に愛須康一がいた。この快速WTBは和歌山工から京産大に入った。梯の教え子である。つながりはあった。
大学でもスパルタは続く。3時間のスクラム練習や雲ケ畑を往復する20キロ近い山道走があった。それでも逃げなかった。大好きだった父を悲しませたくはない。
そのラグビーに集中しすぎて留年した。
「5年目は大学生活を満喫するつもりでした」
大西の研究室に呼ばれ、「この日から練習が始まるから」。有無を言わさなかった。5年目も日々果てる練習を繰り返す。
のりおは今、京都にいる。ホテルや病院などの維持や管理をする泰晟トラストの部長だ。スパルタに接してきたため、仕事で音を上げることも、温和な性格がゆがむこともない。司馬が敬愛する紀州人である。
のりおという息子、そして、姉の麗予(かずよ)と梯は2人の子を成した。その血は残り、教えは岡本にもつがれている。よく生きたこと、疑いようもない。




