【村上晃一の楕円球ダイアリー#4】ラグビーの楽しみ方はいろいろ。

ラグビーの楽しみ方はいろいろある。
9月25日、大阪のラグビー普及促進居酒屋として、その名を知られる「ラグビー部マーラー」(大阪市中央区)でトークライブの司会をした。
ゲストは関西Aパネルレフリーの立川誠道さんだった。
日本代表の立川理道選手の兄であり、立川4兄弟の次男である。全員が天理高校ラグビー部で全国大会に出場。三男の直道さん、四男の理道さんは、天理大学ラグビー部でキャプテンを務め、クボタスピアーズ船橋・東京ベイ入り。直道さんはクボタで社員として働きながら、清水建設江東ブルーシャークスで現役選手として活動し、理道さんもスピアーズでプレーを続けている。
誠道さんは4歳からラグビースクールでラグビーを始めたが、ある時期から、ラグビーを続けるのがしんどくなった。「ぶつかられるのが怖くなってきたのです」。兄弟がみんなラグビーを続けていることもあって、「辞めたい」と言い出せないまま、天理高校ラグビー部へ。
高校3年の時には全国大会に出場し、準々決勝ではバックスのリザーブとしてメンバー入り。試合途中でスクラムハーフの負傷者が出る。バックスの控えはあと3人。いつでも試合に出られるように3人でウォーミングアップをした。
だが、心の中では願っていたという。「頼む、頑張れ、退場せずにプレーしてくれ」。誠道さんには、なんとしても花園の芝生を踏みたいという気持ちはなかったのだ。
当たり前のことかもしれないが、全国制覇を狙うような部でも、ぶつかられるのが嫌で、試合に出るのが怖いと思っている選手がいる。ラグビー選手みんなが、気が強くて、体当たりが好きなわけではないのだ。
誠道さんは、その時すでにレフリーになりたいと思っていた。
高校1年生で天理高校のオーストラリア遠征に参加した際、17歳の金髪の少年レフリーが毅然として試合を仕切っているのを見たからだ。
「なんて、かっこいいのだろうと思いました。それまで、日本ではレフリーは大人がやるものだと思っていたのです。すぐにレフリーがやりたくなりました」
しかし、当時の日本では高校生はレフリーになれなかった(現在は中学生から「スタートレフリー」の資格が取得できる)。
誠道さんは、高校卒業後、保育士になるための専門学校に通いながら、レフリーのC級ライセンスを取得。21歳で関西大学Aリーグのレフリーを担当できるまでになった。いまも保育園で働きながら週末はレフリーを務める。
「いい試合は選手とレフリーが一緒につくるもの」という考えで、選手に寄り添いながら楽しく笛を吹く。試合終了の笛を吹くときは、とても寂しい気持ちになるという。
誠道さんのように選手としてトップレベルになれなくても、ラグビーを楽しむ道はたくさんある。
今年の6月、日本ラグビーフットボール協会は「ずっと楽しむラグビー」と題するパンフレットを作成した。そこには、コーチ、レフリー、フォトグラファー(写真家)、トレーナー、アナリスト、栄養士など、ラグビーに関わって仕事をするさまざまな人たちの体験談が掲載されている。
栄養士の野田遥子さんは、「ラグビーはポジションによって体格も違うし、食べる量も違います。栄養士としてやりがいがあります」と話し、アナリストの中矢陸さんは「数字でチームの問題点を浮き彫りにするなど、違った角度でラグビーを見るのがアナリストの魅力です」とその役割を楽しむ。
女性レフリーの池田韻(ひびき)さんは、「私がレフリーを選んだのは、プレーヤーと一緒にボールを追いかけて走ることができるからです。世界のスター選手とも同じフィールドで走ることができますよ」と、レフリーならではの楽しさを語る。
そして、「まずは、ラグビーを思いきり楽しんでほしいです。ラグビーは楽しいという感覚を持ったまま、レフリーになるのが一番」とこれからレフリーを目指す人たちにメッセージを送っている。
ラグビーが好き、ラグビーが楽しいという感覚は、ラグビーに関わるすべての役割に共通して必要なものだろう。
筆者もラグビーが好きで、ずっとそばにいたいから、ラグビーを伝える仕事を続けている。
ファンとして見る、運営側で支えるという立場もある。自分に向いているものを探し、いろいろな立場でラグビーを楽しんでほしいと思うのだ。
