【コラム】キャプテンの「投了」

さて。この場面をどうとらえるか。
先の土曜、2025年7月19日のブリスベン。オーストラリア代表ワラビーズがブリテイッシュ&アイリッシュ・ライオンズとぶつかった。
時計は通しで80分、すなわち後半40分を過ぎた。誇り高きゴールドのジャージィのワラビーズは19-27で負けている。自陣トライライン近くのラインアウトをスティール、チケット売り切れのサンコープ・スタジアムの自国ファンを喜ばせるために無理を覚悟で攻めるだろう。そう思った。
違った。80分52秒。ファーストレシーバーよりリターンパスをつかんだキャプテン、ナンバー8のハリー・ウィルソンは、くるんと後方を向いて、みずからインゴールの外へ球を蹴り出した。相手投入を奪った直後にも、リーダーは腕を伸ばして「蹴り出せ」という仕草をこしらえた。
8点を追っている。現実に同点も逆転もありえぬ。あそこでアタックを始めると、むしろ、さらなる失点を招きがちだ。最初のテストマッチなので、あと2戦を残し、まずまずのスコアで終えたほうがチーム心理に有利に働くかもしれない。それに強引な攻撃敢行には負傷のリスクもともなう。
と、理屈においては、主将のゲーム終了キックは間違いではあるまい。
しかし。ラグビーはチェスでも将棋でもない。「投了」はなんだかさみしいなあ。
オーストラリアの伝説の名手で1991年のワールドカップ制覇の英雄、デヴィッド・キャンピージ―は、さっそく、かみついた。
「負けているのに、ボールを外に蹴り出して試合を終わらせる。ワラビーズは決してそんなことをしなかった」(talkSport)
かつてウェールズのCTBで2005年のライオンズの一員、トム・シャンクリンも英国のBBC放送で違和感を明らかにした。
「ワラビーズが、自分たちでボールを蹴って、まるでボーナス点のもらえる負けのように試合を終わらせたことは奇妙だった」
イングランドの元WTB、クリス・アシュトンは、同じメディアにこんなことを言った。
「試合後、ワラビーズの選手たちはライオンズと交じり合い、しあわせそうだった。わたしには理解しづらいが、なんだかライオンズがここにいるのがうれしいみたいに」
往年の名手たちは、オーストラリアのラグビーのぐらつく矜持を語っている。
お前ら、悔しくないのか! 情熱家の監督がよれる大声で叫ぶ。
青春ドラマのありがちなセリフみたいだが、これ、闘争的スポーツにおける大切なパートを表している。敗戦に茫然自失となる者だけが、歳月を経て、そのことは確かに人生の糧となった、と深くわかる。黒星に慣れてよいことはない。
もうひとつ専門家の意見を。2003年、監督としてイングランドを率いてワールドカップ制覇のクライブ・ウッドワード卿の新聞コラム(デイリー・メイル)の一言。
「なぜ選手、しかもキャプテンが試合を終わらせたかったのか。そのことはオーストラリアの良好でない現状をさまざまな意味で示している」
2年前のフランスでは同国のワールドカップ史で初のプール戦敗退に沈んだ。「プライドのレベル」もひとつ下のフロアへ落ちたのか。反対から考えると、もしオーストラリアのラグビー界が波に乗っているなら、あそこで冷静に試合終了とさせ、7日後の機会にすべてをかけて、シリーズ制覇を狙うウィルソン主将の姿勢は評価されるかもしれない。
あらためて「投了」とは。「碁・将棋などで、一方が負けを認めて、勝負がつくこと」(広辞苑第二版補訂版)。よってスコアで優勢の側が球を外へキック、レフェリーのマッチ・イズ・オーバーの笛を聞くのは、それとは異なる。
勝っているのに、しかも、1週間後に重要な決戦が待っているのに、最後の最後までプレーをやめないチームもある。許される限りここにいたい、という本能的な欲求が根底にある気がする。
ラグビー選手なのだからラグビーを勝手にやめない。楕円のボールを抱えて夢中になる子どもの心のままであるほうが自然なのだ。
あれはいつだったか。ひと昔は確実だ。詳細はおぼろげながら、トップリーグ、ファイナルはその先のプレーオフ、東芝ブレイブルーパスもそうした。攻撃を切ってよいのに切らずに続ける。秩父宮のスタンドの観客はみな喜んでいた。美術大学ラグビー部出身のとある男を除いては。
「おい。なに、やってんだよ。勝ってるんだから蹴り出せよ。ケガしたらどうするんだよ」
その人物の字引きに「同調圧力」は存在しない。場にそぐわぬ大声も、ただただハートの奥にある純情の発露なのだった。本職は風変わりな建築家。大金持ちではまったくないけれど、あのときも、いまも、人生、おおむね楽しそうだ。