
【コラム】フランキーさんとの出会い。オーストラリア留学、いいぞ。
3年生になって進路を決めようと、先輩たちに話を聞きに行った。
すると、大学ラグビー部の厳しい上下関係で疲弊している様子を目の当たりにした。心から楽しそうにラグビーをしていた面影はなかった。なんとなく、大学でラグビーをするのが怖くなった。
進路は一向に決まらなかったが、転機は予兆もなく訪れた。
「オーストラリアはどうだ?」
フランキーさんの状況を人づてに聞いた英語教諭が声をかけてくれた。
「恥ずかしい話、アメリカとイギリスしか英語を喋らないと思っていたんです。オーストラリアの存在も曖昧でした。でもちゃんと調べてみたら、ラグビーできる、英語も喋る、天気も良い。その先生が現地にある語学学校の校長とお知り合いで、すぐに話をつけてくれました」
当時18歳。独りでオーストラリアに渡った。
右も左もわからなかったが、地域のラグビークラブに入ったことで、チームメイトが面倒を見てくれた。
年齢による上下関係はなく、すべてがフラットな環境は居心地が良かった。
仕事も、住居も、ラグビーを通じて繋がった仲間たちがすべて助けてくれた。
フランキーと名乗り始めたのもこの頃。ある試合でアキレス腱断裂の大ケガを負い、救急車に担ぎ込まれた。身元証明のため、救急隊員に名前を聞かれる。
“What is your name?”(あなたの名前は何ですか?)
“I’m Yu (you)”(私はあなたです)
“?”
こんな会話が延々と続き、救急隊員に呆れられた。
「名前の祐とyou(ユー)の発音が同じで、会話がまったく進まなくて。ケガの痛みで気がおかしくなっていると思われて、鎮痛剤のガスを散々吸わされました。そんなことからチームメイトたちの勧めで、フランクという前年までチームにいた選手の愛称 “フランキー” を受け継ぐことになって。『なんかフランクの面影もあるし、お前はもうフランキーでいいだろ!』と(笑)」
当時は大学院に進学すると永住権が取れた。語学学校から編入したグリフィス大学からサザン・クロス大学院へ進学し、会計学を専攻。この頃から、日本の知り合いの依頼を受けて、留学サポートをおこなっている。
過去の自分と同じように、進路で迷っていたり、日本特有の慣習がどこか合わなかったり。そんな人の助けになれたらと、長年サポートを進めてきた。
「ゴールドコーストは年中気候も暖かくて、すぐ近くに海があります。それだけで気分も上向きになりますし、別の世界を知って比較対象を持つだけで、視野が広がると思います」
私の場合は、さまざまなクラブのジムセッションを見学するために、自転車の走行距離が1日40キロを超える日も少なくなかった。
フランキーさんはそれを見越して、タイヤが丈夫なマウンテンバイクを手配してくれた。
また、当初は別のルートでホームステイを予定していたが、直前でステイ先のキャンセルに遭った。
ドタキャンという緊急事態でフランキーさんが用意してくれたホストファミリーには大変助けられ、生活のありがたみ以上に一生の繋がりができた。今でもたまに、チャットでメッセージを送ってくれる。
私と同時期には、バスケットボールチームのトレーナーとして渡豪した同期がいた。
彼の場合は、チームには治療用のベッドがなく、フランキーさんにお願いすると翌日には持ってきてくれたという。現地サポートという響き以上に、動きが早かったのが印象的だった。
フランキーさんが留学生と接する中で大切にしているのは、意外にも「相手を助けすぎない」ことだ。
「とにかく自分からコミュニケーションを取っていかないと、向こうは喋りかけてもきません。『海外の人はフレンドリーと聞いていたけど、誰も喋ってくれない…』と言いますが、それは向こうも同じ。『はじめまして』の壁をこちらから取っ払わないと、何も始まりません。
もちろん留学生の年代にもよりますが、自分があまりに介入すると成長を妨げてしまうので、線引きを持つようにしています。例えば語学学校に行くときも、わざと筆箱を忘れて行ったら『ペン貸して』ってコミュニケーションが取れますよね。もし余裕があるんだったら『お礼にランチ奢るよ』とか。コミュニケーションを取りにいくのは、生きていく上で重要なスキルだと思います」