コラム 2024.11.01

【ラグリパWest】無双への道㊤。綾部正史 [大阪桐蔭高校ラグビー部/監督]

[ 鎮 勝也 ]
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【ラグリパWest】無双への道㊤。綾部正史 [大阪桐蔭高校ラグビー部/監督]
念願の人工芝の専用グラウンドを手に入れた大阪桐蔭高校ラグビー部。綾部正史監督は75人の部員とともにこのグラウンドを使い、選抜と全国大会の春冬連覇を目指す。LED照明塔が囲むグラウンドは夜でも明るい。

 この冬、大阪桐蔭は5校目となる高校ラグビー春冬連覇を狙う。

 その快挙達成を後押しするように、専用グラウンドの人工芝化が完了した。

 監督の綾部正史(あやべ・まさし)は卵型の顔をくしゃくしゃにする。
「うれしいです。30年ほどの思いが詰まっています」
 綾部が大体大を卒業し、母校でもある大阪桐蔭のコーチについたのは1997年だった。

 就任と同時に、専用グラウンドは大阪と奈良を分ける生駒の山並みに上がってきた。南には642メートルのその山頂が見える。市域は大東(だいとう)。送迎にはスクールバスが使われる。以前はふもとにある学校の敷地内で練習をした。

 緑濃い新しいグラウンドはフルサイズの縦100×横70メートル。人工芝の間には木片が入り、夏の高温化を防ぐ。その周囲を光度の高いLED照明塔4基がとりまく。管理用の平屋2棟も新装された。ウエイトルームやシャワー、トイレなどが設置されている。

 主将の名取凛之輔は目を輝かせる。3年生CTBは高校日本代表候補でもある。
「ジャージーが汚れないし、毎日、練習前にラインを引く必要もありません」
 雨が降れば、泥だらけになった。排水もよくなく、冬は氷が張った。

 グラウンドの改良は国定公園における開発制限や学校と交渉を乗り越えた結果だ。今春3月、選抜の優勝もその推進力になった。25回大会の決勝は石見智翠館に55-3。11大会ぶり2回目の頂点に上り詰める。

 工事が始まったのは今年5月。完成まで5か月を要した。練習は隣県の御所実や奈良商工でやらせてもらったりもした。
「下の学校や四条畷(しじょうなわて)の市のグラウンドを借りたりもしました」
 部長の山本健太は振り返る。山本は36歳。綾部の教え子で大体大でもその後輩になる。

 ラグビー仲間の協力やグラウンドの人工芝化を受け、大阪桐蔭は春冬連覇がかかる104回目の全国大会に挑む。その偉業をなしたのは常翔啓光、東海大仰星、東福岡、桐蔭学園の4校だ。全国大会は開催場所の花園ラグビー場から「花園」の愛称がついている。

 綾部は大阪桐蔭の17回の花園出場で、コーチ時代の2回を含め16回に携わり、白ベースに紺ラインのジャージーを全国に知らしめてきた。来年1月には50歳になる。

 大阪桐蔭が前回、春の選抜を制したのは14回大会(2013年度)だった。その冬の花園は93回大会。4強戦で桐蔭学園に0-43で敗れた。司令塔、SOの喜連航平(現・九州KV)がひざを痛めていた。

 それから11年。今年のチームは高校日本代表候補に名取ら9人を送り込む。SH 川端隆馬、SO上田倭楓(いぶき)も含まれる。このHB団が試合の組み立てを任される。

 綾部は春冬連覇を見据える。
「自分たちのラグビーをどれだけ貫けるかですね。そこだけです」
 特徴である肉体的な強さでボールを保持。それを動かしてスコアする。

 名取は今年の練習を思い返す。
「ボールキャリアーとそれに続く2人目、3人目の動きに力を入れてきました」
 ボール争奪の英訳である「ブレイクダウン」の練習をほぼ毎日する。FWは8対8で22メートルをドライブする。横幅は30メートルほど。縦を突く選択肢が多くなる。

 綾部は基本的にFWの練習につく。
「こんなんでバテてんの?」
 部員たちは返す。
「まだまだ全然です!」
 トライが迫ると声が飛ぶ。
「あわてない。ゴールラインは目の前や」

 綾部は日々の練習内容について話す。
「6割くらい即興ですよ」
 事前に決めていても、習熟度や状況を見ながら、自在に変えてゆく。積み上げた自信がある。大体大の4年を除き、高校からこの大阪桐蔭にいる。その入学は34年前だった。

 中学のラグビー部顧問だった文屋修身(ぶんや・おさみ)には先見の明があった。
「今、咲いている花もええけれど、後で咲く花もええんやないかな」
 文屋は国語教員。表現力があった。
「練習参加をしたら明るいチームでした」
 綾部は志望を強豪校から変えた。

 中学は八尾(やお)の公立、東だった。競技を始めたのは入学直後である。
「怖い先輩に誘われました」
 結果的に楕円球に魅せられ、継続を決めた。大阪桐蔭の創立と創部は同じ1983年(昭和58)。綾部は8期生になった。

 この高校の創立時の校名は「大阪産業大学高校大東校舎」。大産大高の分校だった。当時から数学を教えている河津浩司(かわづ・ひろし)は説明する。
「最初は5年の限定でした」
 分校設立は大阪府の要請だった。増える高校生を期限付きで受け入れた。

 5年後には分離独立。現校名になる。
「大学からの推薦入学の話も来るようになり、学校を残そう、ということになりました」
 河津は63歳。山本の前のラグビー部部長であり、今でも運営を助けている。

 現在は3類制をとり、Ⅰ類とⅡ類は勉学中心、75人のラグビー部員全員が在籍するⅢ類はクラブ活動に特化している。河津は設立当初、ラグビーが体育コース、現在のⅢ類に入った経緯も覚えている。
「野球とサッカーでコースを作るつもりでしたが、その時はサッカーが断りました。そのため代わりに入ったのです」
 ラグビーは春夏の甲子園優勝9回を誇る野球とともに、筋目正しいクラブといえる。

 当時の体育コースは1クラスだったが、今のⅢ類は4クラスになった。「体育・芸術」として、全国トップの吹奏楽なども加わった。勉学も実績がある。2024年には京大に30人、大阪大に20人の合格者を出している。

 綾部が生徒として在学したのは1990年からの3年間だった。花園出場はない。大阪桐蔭は綾部が大体大の3年時に初出場する。75回大会(1995年度)は3回戦敗退。伏見工(現・京都工学院)に17-31だった。

(無双への道㊦に続く)

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