国内 2024.08.26

言い訳不要のラストシーズン。金昂平[明大4年/FB]

[ 三谷 悠 ]
【キーワード】,
言い訳不要のラストシーズン。金昂平[明大4年/FB]
178㌢、85㌔の金昂平。アウル洛南JRFC、伏見中、大阪朝高を経て明大に進学。4年生になった

 かつて花園のグラウンドを自在に駆け回ったランナーが目を覚ますと、数人のチームメイトに顔をのぞきこまれていた。起き抜けだったが、状況はすぐに把握できた。それでも「さすがにそんなはずはない」と、スマートフォンに表示される時間と部屋の時計を交互に確認する。何度見返しても結果は同じ。早朝の全体練習が終了している時刻だった。

 ちょっとした寝坊ではなく、寝過ごしによる無断でのトレーニングへの不参加。寮生活に慣れないルーキー時代の出来事なら、半分は笑い話で済まされたかもしれない。残念ながら、このときの金昂平(きむ・あんぴょん)は3年生。規律においても下級生の手本にならなければいけない立場だった。

「ダメダメでしたね」

 現在、最上級生になった本人がそう振り返るように、昨季は気持ちの張りを失っていた。寝坊はこれを含めて都合3回。体づくりには欠かせない朝食を抜くことも少なからずあった。いまや15番のポジションを手中に収めつつある、チーム屈指のラインブレイカーの心は楕円球から離れかけていた。

 大学ラグビーのスタートは上々だった。高校3年時、現在は帝京大の副将を務めるSH李錦寿らとともに母校・大阪朝高を花園ベスト4へと導いた。自身も高いランニングスキルで多くのファンをうならせ、明大進学後は早々に紫紺デビューを果たす。日大相手の春季大会初戦で後半27分に途中出場し、その6分後には決勝トライを奪った。次節の流経大戦は左ウイングでスタメンに抜擢された。

 あまりに順調な歩みに、「明治大学で背番号をつけて試合に出ている実感がなかった」と語る一方で、「このままいけるな」とも思っていた。この感覚が間違いの始まりだった。

 その後の帝京大戦では、初めて体験する大学トップレベルの圧力に体が縮こまった。何もできないまま、前半の出場だけで交代。秋以降は一度もAチームから声をかけられないまま、シーズンを終えた。しかし危機感は芽生えなかった。

「最初に出られた実力があるから、まあ、(今後も)出られるやろ、みたいに考えてしまいました。まだ1年生だからいいか、という気持ちでしたね」

 翌年、新たなライバルとなる後輩が入部しても状況は変わらない。春はいくつかの試合で紫紺に袖を通すも、秋にはBチームへ。本当の戦力とは考えられていなかった。原因は明確。時折、目を見張るようなプレーで大きなラインブレイクに成功するものの、同時にイージーミスを繰り返す。大切なマイボールを頻繁に落とし、奪われた。
 当然、監督やコーチには改善を求められる。「いいときはいいけれど、ダメなときはダメ。その幅を小さくしてほしい」。それでもプレーの質を変えようとはしなかった。

「まだ若かったというか、自信があったというか…。自分は間違っていない。いままでこれでやってきたから間違いはない。そういう変なプライドがありました。同じポジションの選手より目立つプレーをしよう。それで試合に出よう、と。でも見られていたのはそこじゃなかった。とにかく、今年(試合に)出ないとまずい。そればかり考えて心に余裕がありませんでした」

 この年が終わると、「来季こそ、ほんまに出なあかん」と、ついに重い腰をあげる。約1か月のオフの間、明治での3年目のシーズンに向けて準備を進めた。実家近くのジムと契約し、ウエートトレーニングに時間を費やす。約3キロの増量に成功。ランの練習も欠かさず、サイズアップに反比例してタイムは縮まった。休養もうまく挟みながら、体のケアにも十分に注意を払った。
 原動力は卒業後に見すえる、リーグワンでのプレー。その目標を実現させるには、リクルートを大きく左右する3年時の活躍が必要だとわかっていた。だから休んでもいい時期でも、高いモチベーションを保てた。

 強い決意を持って迎えた、昨年の創部100周年のシーズン。他の選手よりも一日早く、八幡山に帰ってきた。最終調整を入念におこない、新チーム最初の練習に、万全の体調で臨むためだ。
 すべての用意は整った、はずだった。

 始動初日、扁桃腺が腫れ、高熱にうなされた。

 ラグビーどころではなく、食事もろくに摂れない日々が続く。医師には切除を勧められたが、手術をすれば復帰に余計な時間がかかる。投薬で症状が治まるまで我慢を重ね、体調がある程度戻ったのが約1か月後。体重はおよそ13キロ減っていた。増量のためのオフ返上の努力が水の泡となった。

「休みを犠牲にして、あれだけがんばったのに。ここからスタートやったのにって。気持ちの落差がすごくて、正直くさりかけました。もうええわって」

 前述の「ダメダメ」な生活態度は、この出来事に起因する。たとえ早朝練習に間に合う時間にベッドから出られても、体は重く、気分は乗らない。本人の言葉を借りれば、「人生でいちばんへこんだ時期」。そのままフェードアウトしても不思議ではなかった。

 しかし仲間の存在が、沈んだ気持ちを徐々に軽くしてくれた。卒業後はラグビーを離れ、一般企業へ就職する同期も少なくない。内定を得ようと懸命に励む姿に心を動かされた。オフの日にはともに外へ出かけた。特別な言葉をかわすわけでもなく、気をつかわれるわけでもない。それまでと変わらない態度で接してくれるだけで自然と元気が出た。

 なにより愛される人柄なのだろう。時計を一年先に進めて、今年6月におこなわれた関東ラグビー協会創立100周年記念イベントでの一幕。「東西学生対抗戦」の東軍代表に選ばれ、FBで先発メンバーに名を連ねた。明大のチームメイトが手づくりで用意した応援ボードには、大きな装飾文字で「ちゃらんぽらん 金昂平」。気のいい人だからこその、いわゆる「いじり」だ。本人は、「うれしいですね。部屋にちゃんと保管してあります」と照れくさそうに笑った。

 心やさしい仲間のおかげで頭のなかを切り替えられた。
「これだけ体重が落ちたのだから、この年は捨てるとまでは言わないですけど、来年にすべてをかけよう、と。3年生の夏あたりから体重を戻すことをいちばんに考えて、体づくりに取り組みました。シーズンの最後に2回立て続けに脳震盪をやってしまったんですけど、このときはほとんど落ち込まなかった。ラグビーをしている以上は避けられない。回復させて、もう一回がんばればいいだけ。あれだけの経験をしたので、いまはなにが起きても、という感じです」

 すっかり耐性がついて、心は簡単に折れそうにない。

 4年生で迎える今季は、チームの顔のひとりと言って間違いないだろう。春シーズンはBKの選手で唯一、Aチームの全7試合に先発出場。菅平合宿の練習試合でも、4試合すべてで15番を背負いグラウンドに立った。本職のFBを含むバックスリーのメンバー争いは熾烈(しれつ)を極めるが、スタッフからの信頼は厚い。
 コンディションの復調に加え、ラグビーへの考え方や向き合い方の変化が状況を好転させた。余計なプライドを捨て、「イチかバチかの派手なプレー」の呪縛をみずから解いた。

「今年は試合に出ていたメンバーが少なく、ほとんどイチからチームをつくらないといけない。そんな中で、最上級生の自分が成功率の低いビッグプレーにいつまでもこだわるのはよくないな、と。ラグビーはうまくいかないことの連続。だから少しでもゲインしたり、マイボールをしっかりキープする。そういう基本を心がけていたら、プレー全体の質がどんどんよくなっていきました」

 いまになって下級生だった頃を振り返ると、「いいなあ」と思える先輩は皆、パフォーマンスの土台が堅固だった。
「たとえば、江藤良さん(現・横浜E)。僕が入部したときの4年生で、その年に初めて対抗戦に出るんですけど、ミスをした印象がほとんどない。そのまま選手権の決勝まですべての試合に先発しました。齊藤誉哉さん(現・埼玉WK)もそうです。1年生のときはジュニアの試合で一緒でした。そこで感じたのは、チームや後輩への声かけ、堅実なプレーで後輩を引っ張る姿。本当に頼りになる先輩の意味がわかりました。あとは(廣瀬)雄也さん(現・S東京ベイ)。みんなにあれだけ信頼されるキャプテンだったのは、結局そういうところなのかなあ、と」

 過去3シーズン、いつまでも変わろうとしない自分を見捨てなかったコーチにも恩返しをしたい、と考えている。
「ボールのリリースが適当で、止められたらそこで終わり。ダメなプレーを繰り返しても、滝澤(佳之)さんはずっとアドバイスしてくれました。熱さが伝わってきて、それには応えないといけない。3年間、言うことを聞かないまま来たのに、それでも言い続けてくれたので」

 BK全体の力量、レベルには自信がある。「今季も強い」と矜持に満ちた口調で話す。
「みんな速くて、うまい。正直、ランやパスは誰が出ても一緒。遜色ないです」

 では、どこで違いを生み出し、ポジションを守り続けるのか。
「いいなと思った先輩と同じように、頼られる選手にならないといけない。チームの雰囲気が悪いときに、いちばん後ろの立ち位置から引っ張る力が必要だと思います。明治は悪いプレーが続いたり、相手にポンポンと(トライを)取られると、落ち込んでしまう傾向がある。僕はそういうのをまったく気にしないので、(チームが)沈んでいるときに引き上げられるような存在でいたい」

 いよいよ紫紺を着られる最後のシーズンが始まる。自覚と責任感が以前とはまるで違う。「この気持ちを最初から持っとけよ、と過去の自分に言いたいくらい」と自嘲気味に笑ったあと、真剣な表情で言った。

「3年間、言い訳はしつくしたので」

 最上級生になって約半年が過ぎた。取材をおこなったのは7月末。当然、その時点で寝坊による早朝練習への遅刻は一度もない。

関東ラグビー協会創立100周年記念試合でスタンドから掲げられた応援ボード

PICK UP