コラム 2024.08.26

【コラム】北口榛花に学ぶ。

[ 渡邊 隆 ]
【コラム】北口榛花に学ぶ。
パリ五輪の女子やり投げ決勝で65㍍80を記録し、マラソン以外では日本女子初となる陸上の金メダルを獲得した北口榛花(Photo/Getty Images)

「誰かが信じてくれなかったら、ここに立てなかったと思いますし、ちゃんとずっと味方してくれる人がいてすごくありがたいです」

 パリオリンピックで、フィールド種目では日本女子初となる金メダルを獲得した北口榛花が、競技終了直後に発した言葉である。

 スポーツ万能だった北口は、中学時代から水泳やバドミントンで活躍。高校の陸上部顧問からの誘いを受け、水泳との掛け持ちを条件に陸上部へと入部した。

「実際投げてみた時に、ちょっと楽しいなと感じたので始めました」。この軽いノリで、北口のやり投げ人生がスタートする。

 当時の陸上部顧問、松橋昌巳先生が「世界の北口」を発掘したことになる。「体が大きく、水泳やバドミントンで全国的に活躍した選手がいる。投てきに向いていると思う」というマネージャーからの進言もあったそうで、連携プレーの賜物と言えるかもしれない。

 松橋先生はやり投げの経験こそなかったが、これだけの逸材をケガさせないように、厳しい練習でやる気をなくさないように気遣ったという。
 北口にはその後も大学、社会人と専門のコーチがいなかった。ついには、本人自らやり投げ王国・チェコのコーチとのメールのやり取りを経て、拠点を海外に移した。そこでの指導で、世界一のポテンシャルは開花した。

 やり投げというと、僕は陸上部だった高校時代を思い出す。
 僕らの同期である塚原由美子が、中学3年の時に出場した県大会200㍍予選の走りを振り返って、安達高校陸上部顧問、片平俊夫先生は後にこう語っている。

「しなやかな体型と柔らかな走り、スピードに乗った時の動作の切れ味が凄かったです。決勝で2回のフライングで失格になった時も平然としていた心の強さ、切り替えのはやさが印象的でした。足腰のバネに非凡なものを感じて、すぐに彼女の実家まで勧誘に行きました。お父様には『由美子は本当にモノになるのかい』と聞かれ、日本で戦える資質を感じます、と答えたことが思い出されます」

 上位に入賞した選手から選ぶのではなく、途中失格になっても、その人間の持つ根源の力、素質を見抜く眼力、直感力、行動力に感動すら覚える。

 塚原自身はそれまでソフトボールにも励んでいて、高校でも続ける意志が強く最初はその勧誘を断ったという。
 しかし片平先生は諦めずに両親を説得し、本人も片平先生の熱意に屈し、そこまで自分の能力を評価してくれるならと、安達高校に入学し、陸上部に入部。高3時にインターハイで優勝した。

 個々の才能を見抜ける指導者がいるかどうかで、日本のスポーツ界が変わる。日本中にその道で大成する天性、個性の持ち主は大勢いるはずだ。その多くのダイアモンドが、原石のまま埋もれていると思う。

 スポーツテストでもっと詳細な測定を組み込み、AI分析などを経て自分がどの種目に向いているのか、その第一次判定だけでもかなり参考になるのではないだろうか。

 僕は中学で相撲、高校で陸上短距離走、砲丸投げ、ハンマー投げ、クロスカントリー、大学でラグビーと、さまざまな世界を渡り歩いてきた。
 ラグビーにしても、素人だった1年生の時は足が速いからWTB、2年は力が強いからフロントロー、3年の秋から自ら志願してFLになった。タックルができるこのポジションは、自分の気性に一番合っていた。4年間、FLができたなら、もっとラグビーを楽しめたのかもしれない。

 オリンピックなどで刺激を受け、「かっこいい」だけでそのスポーツに邁進するケースがある。しかし、その競技に向くフィジカルがなければ、多くは徒労に終わる。努力だけでトップまで行くのは極めてレアケースである。

 自分の好きなスポーツに打ち込み、青春を捧げ、さまざまな経験を積むことは素晴らしいことではあるけれど、できるだけミスマッチは避けたい。持てる能力を最大限生かしてあげることが、本人のためでもあると思う。

 子どもは自分の秘めた才能などは分からない。親を含めた周りの大人たちが気づいてあげなければ、その才能は埋もれてしまう。選手育成の前に、適正な能力を見抜ける指導者の育成こそが重要に思う。

 個々の子どもの個性を見抜き、褒めてあげる。そして適するスポーツや芸術のレールに乗せることができたならば、もっと一人ひとりが輝く世界になるはずだ。北口榛花がそれを証明してくれた。

 片平先生は投てき種目で高校、大学と活躍され、後に高校教員になり、全日本の学生たちを率いて世界ジュニア陸上などにも参加している。
 今回のパリオリンピックで陸上選手団の監督を務めた山崎一彦さんも、彼が大学1年生の時に出場したブルガリアの世界大会で引率した。山﨑さんは当時から、世界を目指す大志を持っていたという。

 かつて『月刊陸上』にやり投げの練習法などを連載していた片平先生はこう話していた。

「チェコのセケラックコーチはジュニアのナショナルコーチでしたが、北口選手クラスになると、ナショナルコーチに指導してもらうことが常識です。しかし、彼女にはジュニア選手の頃に戻って基礎的な指導を受けたいという気持ちがあり、最先端の技術よりも、基礎練習の確認から高度な技術へ繋がる指導を受けたと言っていました。これが快挙に繋がったと思います」

 基礎練習がいかに大切か。そこを土台に、その根、幹から枝葉は伸びて、花が咲く。どんなスポーツ、芸術などにも言える真理である。

「それにしても素晴らしい投てきでした。走り幅跳びや走り高跳びなどの種目は、助走の良し悪しが大きな影響を受けますが、やり投げも大半は助走で決まります。やりを力任せに投げる選手が多い中、助走を重視して指導するチェコのコーチにより、助走が安定したことが大きかった。関節の可動域を高めながら、脚を使ったさまざまな補強運動が効を奏したように思います。私が全日本のやり投げ選手を指導していた時も、特に助走の重要性を説いて指導してきましたが、補強運動も私の頃と同じようなことをやっている動画を見て、我が意を得たりと思いました。
 当時の陸上マガジンで、これからの技術は塚原を参考にしなければならない、と褒められたことを思い出します。スピードのある助走を一瞬で止めて、腰、上体に伝え、ムチ運動を引き起こすと、やりに大きな力が伝えられて遠くに飛ばせます。北口選手はこのムチ運動が素晴らしく、少しくらいやりの角度が甘くても遠くに飛ばせるのです」

「(高校で指導した)塚原が優れていたのはリリースポイントで押さえる感覚で、その力は鉄棒運動や金属バット、短鉄棒でのタイヤ叩きで鍛えました。やりの空中姿勢を維持させるためには、やりにスピンをかけなければいけませんが、北口選手はその技術も上手です。レベルは違いますが、華奢な身体の塚原も当時はこの技術が素晴らしかった。
『相手は同じ高校生、思いっきりやってこい!』と言って送り出した塚原は、最終投てきで逆転して優勝しました。福島県勢が全国大会ワンツーも初めてでした。
 その年のインターハイの会場は国立競技場だったので、私の声が届くはずもなく、私が心の中で『肩の力を抜いて投げてくれ!』と願っていたら、塚原になぜか私の声が届いたそうで、まさに以心伝心の思いでした」

 優れた指導者のお手本を見ているようだ。人の才能を見抜く目があり、人を育てる愛情と、力量を兼ね備えた指導者が、日本に求められている。
 北口選手が発したこの言葉が、自らの持つ才能、その真の理解者の存在が、いかに大切かを物語っている。

「誰かが信じてくれなかったら、ここに立てなかった」

【筆者プロフィール】渡邊 隆( わたなべ・たかし )
1957年6月14日、福島県生まれ。安達高→早大。171㌢、76㌔(大学4年時)。早大ラグビー部1981年度FL。中学相撲全国大会準優勝、高校時代は陸上部。2浪後に大学入学、ラグビーを始める。大西鐵之祐監督の目に止まり、4年時にレギュラーを勝ち取る。1982年全早稲田英仏遠征メンバー。現在は株式会社糀屋(空の庭)CEO。愛称「ドス」

PICK UP