コラム 2024.04.23

【ラグリパWest】医師を育てるラグビー㊦ 久留米大学医学部ラグビー部

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】医師を育てるラグビー㊦ 久留米大学医学部ラグビー部
久留米大の医学部グラウンド。昨年1月、人工芝化のお披露目があった。このグラウンドは医学部のラグビーやサッカーの部活のみならず、女子ラグビーチームの「ナナイロプリズム福岡」も使用する。うしろの石垣は久留米城時代のもの。歴史を感じる


 久留米大学の医学部グラウンドは人工芝化された。それは女子ラグビーチーム「ナナイロプリズム福岡」にとっても恩恵になる。同じ福岡・久留米市を本拠地とすることもあり、練習などで使わせてもらえるからだ。

 この「ナナイロ」と短縮されるチームは結成の5年前、学校法人の久留米大学と包括連携協定を結んだ。学校法人側の理事長は永田見生(けんせい)。医学部ラグビー部のOBでもあり、整形外科医でもある。

 グラウンド使用はその協定に基づいている。ナナイロのスキルコーチの久木元孝正(くきもと・こうせい)を医学部ラグビー部に派遣するのもその連携の一環である。

 ナナイロのCEO(最高経営責任者)は村上秀孝。57歳。医学部ラグビー部のOBであり、整形外科医でもある。2011年のワールドカップでは日本代表のチームドクターもつとめた。村上は競技の普及・発展のためチームを立ち上げた際、中村知春を伴って、先輩の永田の元にあいさつに訪れた。

 村上は当時を思い出す。その細い目は笑みで線になる。
「なんでもっと早くせんかった、言ったやろうが、と言われました」
 中村は7人制と15人制の日本代表であり、村上と並び、このチームの中心である。そのバックアップを含め永田は昨年、日本ラグビー協会から「功労賞」を受けている。

 久留米大学のサポートもあって、ナナイロは北九州大会で3位に入った。4月6、7日にあった女子7人制の「太陽生命ウィメンズセブンズシリーズ2024」の第1戦である。永田も会場のミクニワールドスタジアム北九州に足を運んでいる。

 その永田も村上も医学部ラグビー部が強い時代に籍を置いた。医学部の大学選手権と言われる西日本医科学生総合体育大会で現役時代に優勝している。この通称「西医体」(にしいたい)は今夏、76回目を迎える。

 永田は4年生からチーム最長の3連覇を達成する。1970年の22回大会から24回大会だった。23回大会の時は5年生主将。ポジションはCTBだった。

 村上は42回大会(1990年)で頂点に立つ。
「決勝は宮崎大に3-0でした」
 当時は5年生。FW第一列として、きついポジションでチームを支えた。その2学年上の先輩が現在、医学部ラグビー部の部長をつとめる田山栄基(えいき)である。

 田山先輩のことを村上は表現する。
「超多忙です」
 心臓外科の専門家で、付属の久留米大学病院で診察や手術を受け持ちながら、教授として医学生に外科学を講義する。村上も福岡・田川にある村上外科病院の院長の顔を持つが、その村上から見ても「超」がつく。

 その田山は長身で俳優のようにマスクは甘い。その柔らかい雰囲気とは裏腹に、現役時代はLOやFLなど激しい位置をこなした。

 この競技は今の専門に生きている。
「心臓外科はチームで動きます。ラグビーとの親和性は高いと思います」
 執刀医は偉くない。中心にはいるが、10人以上で構成される医療関係者全員の意見に耳を傾ける。ひとつになって最良へ向かう。

 人の命に直接的に関わる日々はまた、学生と触れ合う日々でもある。
「向き合わなければなりません」
 学生は世を知らず、脆い。自分もまたそうだった。だからこそ、忙しさにかまけず、真摯に接する。田山は医師と同時にまた教育者でもある。患者と学生の中で生きている。

 その田山と医学部ラグビー部の監督としてコンビを組むのはOBの音琴(ねごと)哲也である。37歳。専門は脳外科。田山と同様、大学病院に勤務しながら、学生に講義する。

 音琴の父・要一郎もOBで同じ監督経験者である。音琴家は二世代に渡って、この医学部ラグビー部に身を捧げている。

「ここでの6年間の学びを終えれば、全員が医師の道を歩みます。臨床の現場でリーダーシップを発揮してゆく。そのためのステップをラグビーで学びます」

 他者との交わり、上下関係など、医教室では学べないことを身に着けてゆく。そのための部活動である。音琴は続ける。
「その上で、西医体などの優勝があればなおいいですね」
 勝負事は勝った方がいい。大会での勝利は医学生を終えたあとの人生の支えになる。

 音琴も西医体の62回大会(2010年)で頂点を経験している。6年生でWTBだった。久留米大学にとって最後8回目の優勝であり、当時のラグビー部の部長は永田だった。

 田山や音琴や部員たちが日々を過ごす旭町キャンパスには大学の象徴である「本館」がある。医学部ラグビー部の創部と同じ1929年に完成した。ロマネスクで白を基調にした鉄筋コンクリート3階建て。正面2階には車寄せがつけられており、貴賓の送迎を果たした。今は国指定の登録有形文化財である。

 その完成から12年後、太平洋戦争が始まった。医学部ラグビー部の部歌は4番まであるが、1番の歌詞の中にある「ユニオンジャック」(ラグビーが生まれたイギリスの国旗)が敵性語ということで、以後歌われなくなった。今は2番から4番までを歌う。

 開戦からしばらくして、当時の九州医専から日本が占領したインドネシアのスマトラ島に医療団が派遣された。国策である。この島はオランダの植民地だった。永田は語る。

「オランダが撤退して、パレンバンの病院が無傷で残った。その病院を生かすために、医師など20人ほどが海を渡った。その中の看護師のひとりが私の母だった」

 母は責務をまっとうする。戦火をくぐり抜け、波濤(はとう)を越え、無事に内地に帰還する。そして、終戦から4年後、永田を産んだ。歴史は今につながっている。

 医学部ラグビー部を巣立つものたちは、勝利への自己犠牲の精神をこの競技から学び、医療の最前線に飛び出してゆく。世の人たちが広く知る華々しい戦績はないが、人を救うというところで生きてゆく。

 そのクラブ存続のために欠かせない春がまた巡って来た。さらに先にこの集団をつなぐのは、ただ単にその歴史を伸ばすためではない。世のため、人のためである。

 崇高なこと、この上ない。

(医師を育てるラグビー㊤㊦完)

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