コラム 2024.03.29

【ラグリパWest】初の筑波ラグビー。朴大優 [大阪朝高ラグビー部/SO]

[ 鎮 勝也 ]
【ラグリパWest】初の筑波ラグビー。朴大優 [大阪朝高ラグビー部/SO]
大阪朝高ラグビー部から初めて筑波大に進む朴大優(ぱく・てう、写真左)。利き足が左のSOは国体の大阪府選抜チーム「オール大阪」にも選ばれている。文賢(むん・ひょん)監督も教え子の関東での活躍に期待を寄せる


 大阪朝高のラグビー部は冬の全国大会出場11回、そのうち3回の4強を誇る。

 部ができたのは1972年(昭和47)。その強豪が創部53年目にして、初めて筑波ラグビーへの参入者を得る。

 朴大優(ぱく・てう)である。

 愛称は名の「テウ」。このSOは共通テストを受け、筑波の体育学群に合格した。いわゆる「一般組」だ。ラグビーの履歴は「オール大阪」。国体の府選抜チームの一員だった。

「合格発表は3月8日でした。ドキドキしながらネットを見ました。自分の番号を見つけた時はうれしくって…。親は泣いてくれました。ほっとしたら、熱が出ました」

 笑いの都、大阪の子にとってどんな話でもオチをつけることはマストである。

 大阪朝高のラグビー部監督は文賢(むん・ひょん)。教え子をほめる。
「テウはずっと、筑波に入りたい、と言っていました。有言実行になりました」
 文は35歳。社会科教員でもある。

 水色と白のジャージーがテウの脳裏に深く刻まれたのは9年前。小学校にあたる生野朝鮮初級学校の4年生だった。

「筑波が帝京の連勝記録を止めた試合をテレビで見ていて、感動しました。福岡さんがすごく格好良かった。ライン際をバンバン走っていました」

 帝京の対学生連勝はこの2015年11月29日に50で止まる。得点は20-17。WTBの福岡堅樹はこの秋のワールドカップに初参加する。切れ味は鋭かった。当時の日本代表キャップは17。最終的には38まで伸ばす。

 その2年前、テウは競技を始めた。布施ラグビースクールだった。父の銀秀(うんす)は大阪の府立高校、花園やクラブチームの千里馬(ちょんりま)でプレーした。

 小学校ではサッカーをした時期もあったが、中学にあたる東大阪朝鮮中級学校ではまたラグビーに集中する。
「ラグビーは練習すれば身につくし、楽しかったです。体を当てるのも好きでした」
 中学はテウが1年の時に高校と合併。現在の正式名称、大阪朝鮮中高級学校になる。

 朝鮮学校はその半島に祖先を持つ子供たちが、北朝鮮や韓国などの国籍に関わらず、民族学などを勉強する。校内では朝鮮語を使う。大阪朝高の学校創立は1952年である。

 高校ではラグビーとともに勉強に精を出す。
「日曜は5時間くらいはやりました」
 文は補足する。
「テウは理系のコースにいました」
 授業時間は長く、練習には途中参加も多かった。そのテウが西村康平の目に止まる。

 西村は筑波OBで布施工科の監督である。この実業校は大阪朝高と同じ東大阪市内にあり、合同練習など関係は密だった。

 テウには大きな感謝がある。
「西村先生がいないと落ちていたと思います。二次試験は論述があるのですが、その予想問題を30個ほど作ってくれました」
 37歳の西村はこともなげに言った。
「僕もやってもらいましたから」

 西村は茨木の高校時、筑波入りに動いてくれたのは恩師の奥野義房だった。日体大のOBにも関わらず、体育学群がその中心になるライバル校への合格のため心を砕いた。奥野は16年前、ガンで没した。50歳だった。

 テウが入学する筑波は国立であり、大学ラグビーの人気校のひとつである。入学者はハイレベルな競技推薦組もいれば、テウのような一般組もおり、様々な価値観が溶け合い、学生の自治を目指したチームを作り上げる。

 その創部は1924年(大正13)。今年、100周年を迎える。前身は教員養成の中心、東京師範学校。大学選手権出場は25回で準優勝は2回ある。49回大会(2012年度)と51回大会はともに帝京に22-39、7-50で敗れた。その9連覇の4回と6回目にあたる。

 西村の尽力もあり、テウはその後輩になれた。171センチ、81キロのSOの長所を同じポジションだった視点から話す。
「テウは仕掛けながら、パスが放れます」
 ラインに速さを与え、前に出せる力で昨秋の鹿児島国体は5位に入った。続く103回目の全国大会予選は決勝敗退。本大会で4強入りする大阪桐蔭に3-24で敗れた

 テウがこれからゆく筑波のSOは新3年生の楢󠄀本幹志朗(ならもと・かんじろう)。新人からレギュラーに定着している。
「大学ではCTBも視野に入れています」
 テウと楢󠄀本の利き足は同じ左。その長所を生かした戦い方を考えている。

 テウにはCTBに下がってでも、初年度から公式戦に出たい強い思いがある。
「従兄(いとこ)と対戦したいのです」
 従兄は李錦寿(り・くんす)。帝京の正SHである。母・徐梨華(そ・りふぁ)の妹の子どもだ。李は新4年生である。
「だから、今年出ないと戦えません」

 従兄との対決を思い描く筑波には偉大な先人も籍を置いた。「朝鮮ラグビーの父」と呼ばれる全源治(ちょん・うぉんち)である。

 全は1934年の生まれ。福岡の明善から前身の東京教育大に入った。SOで4年時には主将だった。1968年、大学にあたる朝鮮大学校に赴任し、ラグビー部を作った。その一期生7人が卒業後、全国各地の高級学校に帰り、ラグビー部を作った。「父」のゆえんである。

 朝鮮大学校のOBでもある文は言う。
「ここから発展してゆけばいいな、と思っています」
 全は10年前、鬼籍に入った。79歳だった。その存在やつながりはテウが入学することで再認識された。大慶と言えよう。

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